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特集:アリアンサ移住地はブラジル信濃村か | 移住史ライブラリIndex

ニッケイ新聞2003年6月14日掲載

日本の歴史から消えるブラジル移民
  アリアンサ移住地はブラジル信濃村か

ありあんさ史研究会・木村 快

 日本力行会が全国から集めた移住地

 ブラジル移民百周年を迎えようとする現在、日本の歴史書は果たしてブラジル移住をどのように扱っているだろうか。
 残念ながら、もっとも信頼性が高いと言われている歴史学研究会編の「日本史年表」(岩波書店)にはブラジル移住に限らず移住に関する事項は全く見あたらない。つまり日本の近代には移住などなかったと言うことである。
 一九九七年に歴史出版の大手、山川出版社から二十世紀を振り返るという視点で「長野県の歴史」が出版され、珍しくブラジル移住に関する記述が登場した。信濃海外協会が建設したアリアンサ移住地についてだが、ただし、「ぶらじる信濃村(アリアンサ移住地)」とカッコ付きである。ぶらじる信濃村という呼び方は決して愛称としてではない。長野県が多くの県民を満州(中国東北部)に送り込み、悲惨な結末を遂げた満州信濃村の元祖として、否定的な意味で使われているのである。
 「長野県の歴史」によると、長野県の無責任な分村移住は大正時代のぶらじる信濃村(アリアンサ移住地)建設から始まったとし、アリアンサ移住地は同県人だけで固まろうとする郷党的親睦思想に基づいて建設されたもので、この他民族を排除する思想が後に満州において多くの残留婦人や残留孤児を生んだのだとしている。
 アリアンサ移住地は一九二四(大正十三)年に信濃海外協会の名で建設されているが、実際には日本力行会が中心になって全国から入植者を集めた移住地である。渡航者名簿によると大正十五年の時点で二六道府県から八六家族が移住し、そのうち長野県からの移住者は十五家族(一七%)にすぎない。昭和二年の時点で三四道府県一三六家族中、長野県からの移住者は二七家族(二〇%)である。入植の形態は到着順に耕地を配分する混植方式で、同県人だけで固まることはできなかった。「長野県の歴史」はこれを長野県人だけで固まったぶらじる信濃村であると断定しているのである。

 もはや外国の移住地なのか

 二〇〇〇年にはやはり大手の出版社大月書店から「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」が出版され、ここでも「長野県の歴史」と全く同様のぶらじる信濃村論が展開されている。しかもこれは新しい調査によって判明した新見解だと言う。だが、両書の執筆者とも、アリアンサ移住地の調査はしていないし、ブラジル側に問い合わせた形跡もない。
 同書によると、アリアンサを建設した信濃海外協会は天皇中心の皇道主義で凝り固まった信濃教育会が中心になって組織したもので、理事の永田稠(しげし)は満州開拓を狙っていたが、第二回総会で本間利雄総裁に「ブラジルあるのみ」と反対されたとの新説を展開している。
 信濃教育会がアリアンサ建設の主力であった事実はないし、本当は満州に開拓地をつくりたかったのに総裁の意向でブラジルになったということも事実ではない。もともと信濃海外協会は永田稠や輪湖俊午郎らがブラジルに移住地を建設する目的で長野県有力者に働きかけてつくった組織で、この第二回総会は移住地建設を宣言した総会である。現存する移住地の歴史を、現地調査することもなく勝手にねつ造し、また、これに誰も異論を唱えないのが日本歴史学の現状である。
 論調の展開を見ると、どうやら両書ともアリアンサ移住地はすでに存在しないものと思いこんでいるようだ。日本人にとって、移住とはそれほど遠い歴史になっている。
 アリアンサ移住地から出版社、長野県の新聞社や図書館に抗議文を送り、現地調査を求めているそうだが、全くなしのつぶてだという。アリアンサはブラジルに現存する数少ない日系移住地である。これが日本国内の村にかかわることならテレビも新聞も騒然となるところだが、たとえ現存移住地であろうと、日本人にとってはもはや外国人の移住地だと言うことなのだろう。

 移住史との接点を失った日本史

 どうして日本の歴史書からブラジル移住が消えていくのだろうか。ブラジル移住史を扱いにくくさせている大きな原因は、一九二七(昭和二)年に成立した海外移住組合法の成立事情、栃木、宮崎をのぞく全国に組織された海外移住組合の動向、ブラジルにバストス、チエテ、トレスバラスなどの大移住地を建設した海外移住組合連合会の実態を示す資料がないためである。海外移住組合法成立後、移住が中止される一九四一年までに、戦前移住者の七六%に当たる一三万人が移住しているが、この移住を進めた日本側の実態が不明だということは、移住史と日本史をつなぐ大動脈が切断されているということである。
 移住組合連合会とは海外移住組合の連合機関で、設立時の会頭は内務大臣であり、ブラジルでの代行機関はブラジル拓植組合(通称ブラ拓)である。連合会はブラジルに全国各県の分村移住地を建設する目的で活動を開始するが、いつの間にかバストス、チエテ、トレスバラスの三大移住地建設に転換。これが国内で大問題になり、昭和六年に梅谷光貞専務は失脚し、宮坂国人が専務に就任している。この政変はブラジル側でも混乱を起こし、アリアンサ移住地には移住地政策を巡って昭和十年までブラ拓と抗争した歴史が残っているが、ブラ拓側つまり政府側の資料はない。
 昭和二年から十年にかけてという時代は、日本国内では大正デモクラシーと呼ばれた開明的な時代から、関東大震災、金融不況を経て急速に対中、対米の十五年戦争へと急旋回する時代であり、戦前の日本を考える場合、最も重要な時代である。
 当然移住政策も急転換している。その転換点が昭和二年の海外移住組合法の成立と海外移住組合連合会の設立であり、昭和六年の連合会総会における幹部の交代と政策の大転換である。この激変する移住政策の内容が不明なため、日本の「ぶらじる信濃村論」者はブラジルでは一県一村移住地政策が実行されていたものと誤解してしまったようである。

 戦前の歴史には無関心な日本

 日本の歴史はすべて戦後の視点から書き直されているが、こと移住関係史については見直しはおろか全く無視されたままで、日本史との接点も失われたままである。
 日本側に残る戦前の移住資料は言うまでもなく当時の国策に都合のいい部分しか記述されておらず、必ずしも実態を反映したものではない。日本史として移住を扱う場合、国から放置された移住者たちがどのような道のりを歩いてきたのかという実態を調べ、資料の見直しを行わなければならない。
 戦前資料の裏を読む力がなければ、移住とは大日本帝国の海外発展の手段であり、否定すべきものとしか見えないだろう。日本側の「ぶらじる信濃村論」の誤りは、日本側の資料を鵜呑みにし、実態調査による戦前資料の見直しを行わなかったためである。
 たとえば北海道の移住地を否定的に扱う場合なら、必ず現地調査をし、慎重に裏付けをとるだろう。ところがブラジルの移住地のことは少々間違っていても誰も気がつかないし、それをチェックする機関もないのが現状である。せめてブラジル側にこうした問題をチェックする機関がほしいと思う。
 こうした誤りは執筆者個人の問題より、日本歴史学の体質の問題であるように思える。日本には移住学会という学会があるが、そのほとんどは北米移住の研究者であり、一四〇万人の日系人が存在し、その子弟を外国人労働力として導入している国でありながら、ブラジル日系人のアイデンティティには全く無関心である。現代日本人にひそむ自己中心的な世界観の反映としか言いようがない。
 先日、横浜に新設されたJICAの海外移住資料館で海外移住組合法のコピーがほしいと頼んだところ、ここでも「戦前の資料はありません」とあっさり断られてしまった。
 少なくとも、戦後、南米移住を積極的にすすめた外務省には移住史を見直し、送り出した日本人の側に広い視点を提起する義務があるはずである。

 移住史は日系人のアイデンティティ

 よく知られているように一九七〇年にJACL(日系アメリカ人市民連盟)は大戦中における日系市民の強制収容に対する是正と補償を求める決議を行った。これに対し、アメリカ政府は一九八六年、「拒否された個人の正義」と題する報告書を発表、日系市民の強制収容は不当だったことを認め、被害者への補償を開始した。歴史がただされたのである。
 この名誉回復と補償を求める運動は一九六〇年代の日系三世によるアイデンティティ(自分は何者なのかという社会的な自覚)を求める運動から始まったと言われている。一世は日本人としての差別を受け、その反動として二世はひたすら日本を忘れ合衆国市民であろうとつとめた。しかし、アメリカはブラジル同様世界中からの移民で構成される多文化社会である。三世の時代になってはじめてアジア人の顔をした自分たちはいったい何者なのかという根元的な問いに直面し、日系人としてのアイデンティティを求め始めたのである。
 このまま日本側による移住史の歪曲や抹消を放置することは、日系人の出自を不明確にしてしまうことになりかねないし、これからの日本人にとっても重要な国際史を見失わせることになる。

 各移住地史の見直しを

 これからの歴史研究者は移住を全く知らない世代の人々である。わたしの体験からすると、ブラジルの各移住地史も今のうちに日本史との関連で補強し、体系づけておく必要がある。一世の書棚に眠っていた貴重な資料が、二世の代になって焼却されてしまったなどという話を聞くと胸が痛む。ポルトゲースで問題意識を呼び起こすことも大切だと思う。
 日本では戦前のブラジル移住が昭和二年の海外移住組合法によって国策化されたものであることも、昭和六年、海外移住組合連合会・ブラ拓の理事長に軍需産業のリーダー平生釟三郎が指名され、日南産業株式会社やブラ拓を通して綿花や工業ダイアモンドの調達を急いだことも、ほとんど知られていない。
 移住は日本のための貴重な資源調達の手段として重視されていたのである。戦後はララ物資と呼ばれる日本人救済物資が移住者から送られてきている。移住史はこうした日本とのかかわりを通して見つめ直す必要がある。
 大正期に建設されたレジストロ植民地やアリアンサ移住地は民間人の運動で実現したため、資料も比較的よく残っているが、昭和期の国策によって建設されたバストス、チエテ、トレスバラスなどの移住地の場合は、せっぱ詰まった国家事情から強引に押しすすめられた経緯があり、事情経過を示す資料は移住管轄が内務省から拓務省に移された時点か、あるいは大東亜省によって抹消されたようである。先にも書いたように、これが日本史とブラジル移住史との接点を失わせている最大の原因と思われる。
 各移住地史はそうした接点をつなぐことによって、これからの日本人にとっても貴重な歴史資料となることは間違いない。

  いまできること

 戦前からの一世生存者が少なくなり、二世以降の日本語能力が低下している現実からすれば、移住資料の見直しは今のうちに日本の歴史学者が調査に当たるべきである。しかし、正直言ってあまり期待は出来ない。むしろブラジル側の将来の研究者のために資料を整備しておくべきかもしれない。
 今できることは、せめて一世たちが知っている限りの事実を書き残すか、二世以降のブラジル人に伝えておくことだと思う。個人個人の体験は必ずしも正しい歴史を反映しているとは言えないが、様々な視点の資料があれば見直しの手がかりがつかめるし、複眼で比較照合することによって正確な資料となる。
 歴史の検証は学説を論ずることより、生活者の証言と突き合わせることである。偉い人の証言も大事だが、できれば無名の人々の聞き書きをたくさん残しておきたいものである。

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