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アリアンサの証言 1

アリアンサ入植当時のこと

伊藤忠雄

  輪湖さん

伊藤忠雄さん近影(92歳) 1997年9月自宅の前で  私のアリアンサ入植は一九二四年一月二七日であります。アリアンサの開植は多くの皆さんがご存じの一九二三年十一月二十日であります。北原地価造(きたはら・ちかぞう)さんご夫妻、座光寺さんご夫妻と軽部青年(しかしその青年は一週間で退植)の五人でありました。私の入植についてはアリアンサ建設の始祖の一人輪湖さんとの関係を語らねばなりません。

 輪湖俊午郎(わこ・しゅんごろう)さんは北米に渡航、転じてブラジルに。在伯六年、一九一八年(大正七年)に帰国、ブラジル事情を講演、移住を宣伝して長野県下を回りました。当時、信濃教育会は若者の海外発展を盛んに奨励しており、それに乗る若者もたくさんおりました。私の兄もその一人、近所の友人と二人で渡伯を決めておりましたが、親父が大反対。その折、輪湖さんがわが高遠町の小学校でブラジル事情の講演がありました。

 親父は輪湖さんの話を聞いてきて、なかなかブラジルはいいところのようだが、あの人の話を全部信用はできぬが、あの人が身内の縁者を幾人も連れていくとのこと。まさか悪いところへ身内を連れていく筈はないから信用してもいいと、老人らしいことを言って兄の渡航を許しました。

 当時、渡伯には十二才以上の労働力のある構成家族をつくることが義務付けられていた。二十一才の兄は十八才の嫁を貰い、私が十五才で家族を構成。兄の友人も同じく三人の家族を作って、大正八年三月二十七日(一九一九年)、神戸は流行性感冒があったため長崎港から讃岐丸に乗船、同航者七百八十名程、長野県人四十家族余。輪湖さんはその移民監督でありました。

 カントクさんは偉い人と子供心におそれていましたが、毎日麦飯とレンコンばかり食べさせられている私どものところへ、一等船客のソーブレメーザのリンゴなどをそっと持ってきて下されたこともありました。

 私どもがレジストロ(イグアッペ植民地)の生活二年ばかり過ぎて、隣の友人と道路造りを請け負ったことがあります。そのとき、どうした風の吹き回しか、輪湖さんが奥さんをファゼンダで働く奥さんの実兄のところに預けて、一人飄然とレジストロにきて、海興(海外興業株式会社)の道路造りの監督を二カ月くらいやったことがります。こちらが仕事をごまかして手を抜いても大目に見て、「監督の日給は四ミルだが、おまえたちはもっと儲かるだろう」とかか大笑しておられました。当時のカマラーダ(労働者)の日給は二ミルレース、私どもの仕事は十ミルレースになりました。

 輪湖さんのご生涯については輪湖さんの追悼集「日々新たなり」や、永田稠さんの多くの著書に出ております。

註1 海外興業株式会社は一九一七年にいくつかの移民会社を日本政府の指導で統合した国策移住会社で、通称「海興」と呼ばれていた。
一九一八年、輪湖俊午郎は海興植民地の移民募集のため帰国、百三十家族を引率してブラジルに戻るが、伊藤さん一家はこのときの移住で、海興のレジストロ植民地に入植。現在のサンパウロ州レジストロ市。

註2 コント、ミルレースは当時のブラジルの貨幣単位。千ミルレースで一コント。当時の為替レートは四ミルレースが一ドルだったとあり、また信濃海外協会の記録にはアリアンサの土地を五五〇コントで購入、邦貨で十八万円とある。二コントで日本まで往復できたとも言う。

  アリアンサへ

 一九二四年一月、突然輪湖さんが私どものところにやってきて、「今度、ノロエステの奥に移住地を造ることになった。おまえたちのもっとも信頼している北原君は座光寺君を連れてすでに入植している。おまえたちもすぐにも行かないか」との話。土地や仕事をほうりだして行くわけにはいかないから、兄は後に残って、私は当時二十才で身軽だから輪湖さんのお供をしてアリアンサへ。

 サンパウロ市で同県の輪湖さんの話に乗って渡伯した若者大山君、力行会の守屋君、三人仲間ができた。バウルーの旅館では「アラサツーバより奥は人の住むところではない。汽車の駅長も三カ月交代だ」などと宿の主人に言われ、ノロエステに知識のない私どもは脅かされた。アラサツーバに一泊、三日目にようやくアリアンサ入り口の駅ルッサンビーラ。

 ピストルを腰につけた四人と、五、六人で一トン半積みくらいの小型自動車に。ピストルなど見たことのない私はいよいよ物騒なところに来たと思った。新聞などで奥地には人殺しなどちょいちょい載っていた。小型カミニヨン(自動車)に乗ってマット(森)の中を十三キロに着いたところが四、五アルケール拓けており、ここの四万アルケールの土地売りの事務所があり、日本人の測量士林田さんがド・ルシヅラと尊称されていました。

 昼飯をそこで食べ、またマット(森)の中の二十五キロの所、半アルケールほど拓き、道路管理人の家がありました。それから三十七キロ、ここが私どものアリアンサで、すでに三アルケールほど拓いて米、ミーリョ(とうもろこし)を蒔き付けてあり、北原さんは日焼けした以前と同じ温顔をもって奥さんともどもお迎え下された。

 トタン屋根の住家はできていたが、壁がない。一ヶ月前にアラサツーバで買った板がまだ着かないと、片隅にパンノを張ってカーマ(寝床)が据えてあった。私どもは土間にコルションを敷いて寝た。座光寺さんの家は別に建てられていた。

 井戸は掘ってあったが、なかなか水が出ない。雨水が溜る程度。百メートルほど離れた道路管理人の井戸から水を運んでいる。

 私どもが着いて一週間して板も着き、板壁ができ、家らしくなった。仕事は入植者の入る収容所造り。まず山伐り。北原さんは先頭に立ってマッシャード(斧)を振るう。座光寺さんは大工さんであったので収容所を建てるための材料とり。

 二月中頃、レジストロから田中君が来て、青年四人となった。

 四月十日頃に収容所の建前。日本式の建て方で奥行七メートル、長さ十五メートル、土台が地上一メートル、高さ五メートル半の建前は六人や七人では無理。それでルッサンビーラ管内の日本人全部を頼んで七人。私どもとで十三人。二日がかりで建前ができた。

 その頃シンコエンタ(五十キロ)は四、五アルケール拓けていたが、ミランド(現在のミランドポリス市)は原始林だった。

註3 北原地価造も一九一六年に長野県からレジストロに移住しており、長野県人会長をしていた。

註4 ブラジルでの面積単位一アルケールは二・五ヘクタール、日本の二・五町歩に該当。

註5 十三キロ、二十五キロ、三十七キロとはルッサンビーラ駅からの距離を示すが、原始林には地名がないから、その場所のキロ数がそのまま地名となっている。当時、十三キロにはこの一帯の土地を管理していたアルフレッド・ミランドの事務所があり、日本人の測量技師林田鎮夫が住んでいた。三十七キロはアリアンサの開拓を始めた地点。

註6 シンコエンタ(五〇キロ)周辺は、鉄道の路線計画変更で実現しなかったが、ノロエステ線の新駅ができて、将来の町の中心地になるはずだった。その後実現したのはさらに十六キロ南の地点で、そこが現在の中心都市ミランドポリス市となる。

註7 収容所という言葉は戦後は使われなくなったが、戦前は神戸移民収容所、横浜移民収容所、サンパウロ移民収容所といったぐあいに、移住者が一時滞在する場所を収容所と呼んでいた。ここでは入植者が自分の家を建てるまでの間住む寮のことを指す。

  開設当時の苦労

ノロエステ線ルッサンビーラ駅に到着した移住者たち。アリアンサ移住地はここから原始林の中を走り35キロ先。アリアンサ移住地史「創設25年」より。 ノロエステ線ルッサンビーラ駅に到着した移住者たち。
アリアンサ移住地はここから原始林の中を走り35キロ先。
アリアンサ移住地史「創設25年」より。

 四月二十五日にキューバから芦部さんがやってきた。

 収容所完成後北原さんはマッシャード(斧)を使うようなことはなかったが、入植者の地区割りの測量、信濃協会直営地や初年度に入植する人々のカフェー植え付け地や住宅地の設定、山伐り請負人との交渉等、多事でありました。

 一方仕事はどんどん進めねばならぬのに日本から送金してこない。輪湖さんは金策に苦心されたようです。その一例、すでに入植の決まっていた私の兄のところへ五月頃飛んで行き、「金のあるだけ貸せ。山伐りを始めねばならぬのに金がない」。そしてこんな話をされたそうです。アラサツーバに山伐りの大請負師がおり、その手下に日本人の通称ルイス・ジポネースと呼ばれる人があり、その人と山伐りの契約をすることになった。彼らはカマラーダ(労働者)に働いただけづつ現金を渡す。カマラーダは毎晩のように賭博をやる。一回ごとにテラ銭を少しづつ胴元に払う。土曜など一晩やっている中に勝ったり負けたり、金はテラ銭にみんな上がってしまう。こんなやり方だから山伐りを始めると同時に現金をだんだん払わねばならぬと。輪湖さんは兄のところにあった現金五コントを持って、喜んで帰られたと。

 その年の山伐り代一アルケール五百ミルレース。二十アルケール拓き、六月の十日頃、レジストロから私の兄家族四人、北山さん家族五人、北沢さん夫妻、林光男さん、中村源さんたちが着き、七月には日本から最初の入植者小川さん、上条さん、鈴木さん各夫妻と篠原さんの七人が到着。九月には瀬下さん、岩波さん、堀さんの家族と戸叶さんの十人が日本からの二陣として到着、賑やかになりました。

 一九二五年には第一アリアンサ二、二〇〇アルケールは全部売れて満植になりました。

  水に苦労する

 入植当時、汗を流して働くことは苦労と思わなかったが、小蜂と小さいブヨには閉口。汗を吸いにくる蜂で、体は蜂の巣のよう。シャツの間などに入った蜂がちくりと刺す。最初は痛かったが、慣れたら痛みを感じなくなった。

 その年はずっと大セッカ(干ばつ)。収容所にもわれわれの手で井戸を掘り始めたが、堅い岩盤に突き当たり、素人の手にはおえん。収容所から百メートル下方に少し湿ったところがあり、そこに井戸を掘った。柔らかい岩盤で、われわれの手でも楽に掘れ、五メートルくらいで水もたくさん出た。収容所にいた人々はその井戸から水を運んでいたが、長いセッカに水が次第に少なくなる。北原さんは毎日その井戸の水の減り方を計っていた。

 用水の節約のために、乳飲み子のあった兄のところではオムツは米の研ぎ汁で洗っていた。一方道路修理人の深井戸は水がたくさんあったので、自動車で収容所の方にも運んでいた。

 多人数に井戸は二つ。両方とも水が少なくなり、あと十日もすればチエテ河から水を運ばなければという事態になった。トラベッサ川には水が流れているが、道がない。車道を拓くには十日も十五日もかかる。そのときすでに十三キロの林田さんのところではチエテ河から水を運んでいた。

 こんな折り、八月末に大豪雨があり、蘇生の思いでした。いたるところに川あり、沼あり、、用水は簡易水道で生活する現在から考えると嘘のような話。われら入植三人組の一人、守屋君は一トン半積みのカミニヨンの運転手。サンパウロでは年上の白人の女とナモーラ(恋愛)していたとか、折々手紙のやりとりをしていたが、女が恋しくなったか、十二月退去。

 大山君は協会直営地に植え付けたカフエーの四年契約に入り、収容所の片隅で自炊して寝起きしていた。昭和二年、美人の娘を連れた家族が収容所に入ってきた。待っていたとばかりその娘とナモーラ(恋愛)して第二アリアンサに入植し、吉安家の養子に入った。現在の救済会の事務局長の吉安国子さんは彼の実子であります。

  野球のはじまり

 一九二四年十月、青年ホームができ、われわれは交代で自炊して働くようになり、他からも人が入ってきました。神沢君もその一人。二五年の二月、新井さんご夫妻と柳田さんが日本から直接入植。奥さんがわれわれの炊事をやってくれることになり、助かりました。二五年には独身青年も日本から入植、青年ホームは十五、六人、いつも満員。新井夫人はご苦労されたことと思います。

 一九二五年中に第一アリアンサは満植。翌年から第二、第三へと移住地は伸びて行きました。

 われわれはただ働くことに一生懸命で娯楽に目を向ける余裕もなかったが、板に井桁に線を引き、細い丸木を切って碁石にして五目並べをやりました。
 ある時、輪湖さんが野球のボールより少し小さい堅いボールをどこからか持ってきて下さり、布でグローブを作ってキャッチボールをやりました。そのうちに少しづつ野球の道具を持って来る人がありましたが、グランドがない。そこで私どもは収容所の前の少し平らの所を日曜ごとにトッコ堀りして最初は三角ベース、それからふつうの四角ベースと伸ばしていきました。
 二五年六月、弓場さん達の着いたときには先に瀬戸さんが持ってきたのや、弓場さんの持ってきたので道具が揃い、本格的に試合をやれるようになりました。グランドはだんだん整備して完成。

 その後の野球は弓場さんの独断場、最初のあのグランド造りには地形が悪いので村民みんなが苦労しましたが、中でも小川林(おがわ・りん)さんのご苦労は大変なものでした。ノロエステの陸上競技大会をアリアンサでやることになり、一戸四人夫ずつ義務的に出た。ところがグランドは半分位しかできない。そこで、先頭に立った小川さんは義勇軍を募って大会三日前にようやく完成した。その間小川さんは二ヶ月ほど自分の仕事は放って、若い人を呼び集めて働いた。その小川さんは渡辺農場に行き、宮尾さんを助けることになっていたが、雑草のアマルゴーソに病菌のある悪病にとりつかれ、若くして他界した。全く惜しい人をなくし、アリアンサの大損失であった。

  北原さんと勝田ドトール

左・輪湖俊午郎、右・北原地価造 写真左・輪湖俊午郎。右・北原地価造
昭和3年〜4年頃の撮影と思われる。
アリアンサ移住地史「創設25年」より。

 北原さんの一番ご苦労されたのは一九二五年以後、入植者は日本から来る、受け入れ準備は遅れがち、人数が増えれば病人も出る、医者は居ない。お産もある、死人も出る。夫婦喧嘩まですべての相談を北原さんの所へ持ち込む。

 入植三年目頃から風土病、マレータ(マラリア)、フェリーダブラボ(森林梅毒)が流行した。たまりかねて、伯国(ブラジル)の公認医師笹田ドトール(ドクトル)を三ヶ月ばかり雇ったことがあった。そのうちに勝田先生が入植医療関係はよくなり、北原さんや輪湖さんはホッとしたことでしょう。勝田ドトールは在植中長年にわたり献身的に働かれ、多くのみなさんから尊敬されておりました。特に黄熱病で多数の人々が亡くなったときなど、ご心痛されたことと思います。

 昭和の初め頃、日本はだいぶ不景気で、大学を出ても仕事のない時代。永田先生のうまい話に乗って渡伯したあまり、労働力のない人々が原始林の中にぶち込まれて、山焼きあとに汗と埃、真っ黒になって暑さに耐えての労働、不平の出るのは当然のこと。それでも先が何もわからんから辛抱できた。そしてカフエーを植え付け、間作の米は上出来、一アルケール百俵も穫れた。しかし市場のアラサツーバまで出して六ミル。サッコ(麻袋)代、運賃を引くと手取り二ミル五百、山伐り代請負人に一アルケール五百ミルも払って、一生懸命働いて、二百五十ミルの収入では引き合わん。籾を貯える倉庫もない、刈った稲を細長く山に積んでおいた。

 収入がないから手持ちの資金は底をつき、信濃協会に借金は増える。協会理事の輪湖さんと北原さんは移住者の生活を支えるために資金の調達にずいぶんご苦労された。それでもカフエーがなるようになればとただそれだけを頼りにみんな張り切った。カフエーは植え付けてから三年、少々実が付いた四年、五年とたくさん穫れた。ところが、植え付け当時、皮付きで四十ミルもしていたカフエーが、生産過剰で一俵四ミル五百から五ミル。それに降霜にも遭い、何とも致し方なく、早くもアリアンサに見切りをつけて出ていく人もありました。

  永田先生

 昭和六年、力行会長の永田稠(ながた・しげし)先生が移住地の現状視察と慰問のため来られた。
「みなさんが私のところへ、食えない、食えないと不平の便りを寄越すから、来てみたら、米は港の船のように畑の中に山積みしてある。今日本は大不景気で、食えないという人は本当になんにもなくて、仕事もない人々がうようよしている。アメリカも大不景気、ハドソン河には玉葱がぶくぶく浮いていた」。いろいろと冗談をまじえてのお話。「悪いあとは必ずよくなると神様が約束している。みなさん頑張りなさい」と諭されて帰られた。

 アリアンサは永田さん、輪湖さん、北原さん三人のご協力によって造られたが、もし永田さんでなく別の人によって移住地が造られたとしたら、それは別の像の移住地、このアリアンサは生まれなかったと思います。たとえば、私の父母が別の人と結婚していたら私はこの世に生まれなかった如く。

 アリアンサには移住地の記録に「拾年誌」「二拾五年誌」「四十五年誌」が発行されており、別に永田先生のアリアンサに関する著書、「日々新たなりき」の輪湖さんの追憶集、北原地価造追憶集などたくさんありますが、入植初期の記録がないというので、八十九才になる私が記憶をたどって書いてみました。間違いや書き足りないことがたくさんありますが、思いのままに筆が動きません。

  輪湖さんの頌徳碑を

 ところでアリアンサでは八木修平さんが公園にふさわしい土地を寄付されて北原記念公園と命名、公園ができ、入植記念碑、永田先生の胸像、佐藤念腹先生の句碑、木村圭石先生の句碑、岩波菊治先生の歌碑、北原先輩の頌徳碑等、アリアンサの歴史を後世に伝える碑がいくつもできました。ただ一つ、アリアンサ創設に最もご苦労された輪湖さんの碑がありません。入植当時から、否それ以前からお世話になった私どもにすれば寂しい限りであります。また村の恩人を村の人々が忘れ去ることは村の恥と思います。幸い今年はアリアンサ入植七十年、いろいろの記念事業をやる計画があると聞いております。その一つとして輪湖さんの頌徳碑の建立を切に希うものであります。
 終わりに、先に逝かれた多くの先輩知人のご冥福を祈り、アリアンサのますますの発展を願って筆を置きます。

 訪れし我が草分けのアリアンサ
  ズボンにつく草の実までも懐かしく

註8 輪湖俊午郎頌徳碑は、アリアンサ在住の八木修平氏、新津英三氏らが中心になって輪湖俊午郎頌徳碑建設委員会をつくり、全ブラジルの日系人から浄財を集め、輪湖俊午郎没後二十一年目の一九九六年六月、北原記念公園のもっとも奥まった場所に建立された。しかし、八木さんはこの頌徳碑の竣工を見ないで亡くなられた。


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