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文化創造の一翼を担う ユバ・バレエ

アリアンサ移住地に夢を託して
ユバ・バレエ団
 かつては内向的で閉鎖的と見られていた日系人の面影はもうそこにはない。全身で解放された喜びを表現するユバ・バレエの「フェスタ」。お祭り好きなブラジル人観客は共に手を振り足を踏み鳴らす。

具現化した夢

矢崎正勝

 「ブラジルの処女地に新たな文化創造を!」
一九二六年、十九歳でアリアンサに入植した、弓場勇の初心である。
 「祈ること、百姓すること、芸術すること」。人間の営みの原点とも言うべき、これらの三つの要素がハーモニーした生活。 
 「人が集まり、その地に定着してこそ文化は生まれる。選ばれた人間のみではなく、馬鹿も利口も、全てが一緒に生活できなければ文化は育たない」という理想を掲げた弓場勇とその仲間たちによって、一九三五年、このアリアンサの原始林の中に弓場農場は生まれた。それゆえ、ユバにはさまざまなタイプの人々が集まり、祈り、働き、文化活動をしつつ生活を営んできた。
 一九六一年、日本から新たな仲間がやってきた。夫は彫刻家で小原久雄と言い、妻はバレリーナで明子と言った。二人がユバに着いたのはクリスマスの直前で、子供たちが劇や遊技の練習をしているところだった。明子はすぐにアドバイスを始めた。子供たちの遊技は、踊りへと変化していった。
 「よき指導者さえ与えられれば、奥地農村の子弟でもバッハやモーツアルトを理解し演奏できるようになり、白鳥の湖を踊れるようになる」と絶えず主張しつづけていた弓場勇の夢の、具現化の第一歩であった。
 以来、バレエは今日まで四十年間、生活の中に生き続けてきた。その後に生まれた子供たちもすでに四世代目となるが、踊ることを当たり前のこととして暮らしてきている。
 創設から倒産、分裂から再建、そして弓場勇の死。正に紆余曲折、さまざまな変遷を経ての六六年。しかし、半世紀を経てなお存続しつづけてきたユバ。さらに五世、六世と世代を越えて受け継がれ、「ユバ文化」と言う「新たなる文化」として確立されてゆくことを祈って止まない。

ユバ・バレエの活動

 1961年のクリスマスからはじまったバレエは、1965年にユバ農場を訪れたサンパウロ州政府の内務長官が舞台を観て感激、サンパウロ州十都市でのバレエ公演を要請された。これがきっかけで各地へ出かけて公演するようになる。さらに1972年、大統領夫人の招待で首都ブラジリアで公演、全ブラジルに知られるようになった。
 1961年12月から2000年までの40年間で実に735回の公演を行っている。合唱の公演を含めると800回近くになる。出演依頼が来るとできる限り農場の仕事をやりくりして、舞台器材一式を持って出かける。農場の仕事が待っているからよほどのことがなければホテルにも泊まらず、数百キロの道のりをバスで仮眠しながら日帰りする。
 レッスンはバレエ、器楽演奏、合唱と交互に毎日夕食後に行われる。公演のある日は子どもたちも学校の許可を受けて出演する。子どもたちの舞台はどこでも人気の的である。
 1978年には日本移民70周年の文化使節として、1991年には日本青年団協議会に招かれ、日本各地で公演している。1992年にブラジルで開催された地球環境サミットにも、日本NGOを支援する国際イベントに出演。今や日系ブラジル人のシンボルとなっている。
(木村)


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