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現在のアリアンサ移住地

アリアンサ移住地地図
 アリアンサ移住地はサンパウロ市から西北へ六〇〇キロの場所にある。サンパウロ市から特急バスで十時間。飛行機でアラサツーバまで行き、そこからバスを利用することもできる。

 一般にアリアンサ移住地と呼ばれる地域には一九二四(大正一三)年に信濃海外協会によって開設された第一アリアンサ移住地、一九二六(大正一五)年に信濃海外協会と鳥取海外協会が共同開設した第二アリアンサ、一九二七(昭和二)年に信濃海外協会と富山海外移民協会が共同開設した第三アリアンサ、一九二六(大正一五)年に熊本海外協会が開設したヴィラ・ノーバ移住地、一九三三(昭和八)年から一九三四年にかけて海外移住組合連合会(現地機関ブラジル拓殖組合)が開設したノーバ・アリアンサ移住地、フォルモーザ移住地、オリエンテ移住地などがある。

 この地域はアリアンサ移住地が開設されるまではほとんど無人地帯であったが、次第に人口が増大し、最盛期には日本人移住者だけで一千世帯五千人の大移住地となった。そしてアリアンサの隣接地にミランドポリス市が出現し、人口は増大の一途をたどる。戦後は、ノーバ・アリアンサ移住地は消滅し、ミランドポリス市街になっている。

 アリアンサ移住地(のちに第一アリアンサと改名)は当時の国策移住が出稼ぎ中心であったため、医療問題・教育問題が深刻な事態に陥っており、日本力行会の永田稠とブラジル在住のジャーナリスト輪湖俊午郎によって企画された初めての民営大移住地である。この移住地建設が成功したため、鳥取海外協会や富山海外移民協会も信濃海外協会と共同で移住地を建設し、熊本海外協会も独自に移住地を建設した。

 こうした移住地ブームを背景にして日本政府は一九二七年に海外移住組合法を成立させる。政府はただちに海外移住組合連合会(現地機関ブラジル拓殖組合)を組織し、ブラジルに一県一村の移住地を毎年八県分ずつ建設する目的で乗り出すが、現状を無視した計画はたちまち破綻。やむなく大移住地方式に転換し、一九二九年以後、バストス移住地、チエテ移住地、アリアンサ隣接地にノーバ・アリアンサ移住地、フォルモーザ移住地などを建設する。

 統計によると一九〇八(明治四一)年から第二次大戦の始まる一九四一(昭和一六)年までの三十三年間に十八万人がブラジルへ移住しているが、その七割に当たる十二万人は海外移住組合法と国策大移住地建設以後の十二年間に移住している。また、その九割はサンパウロ州への移住である。

 しかし戦後はブラジル経済の成長とともに、日本人移住者が大都市へ移動したため、国策大移住地は消滅してしまった。
 現在も日系移住地らしい雰囲気を残し、日本語及び日本文化の伝統を保っている大移住地はアマゾンのトメアスー移住地と、サンパウロ州の第一・第二・第三アリアンサ移住地およびフォルモーザ移住地だけである。フォルモーザ移住地をのぞいてはすべて民間人が建設した移住地である。


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