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アリアンサ移住地はブラジル信濃村か

使用されている用語について

 ブラジル移住と言い、満州移住と言い、現代人にはなじみがない問題なので、ここで使われている用語について簡単に説明しておこう。

ブラジル信濃村 ブラジルにそのような名称の移住地は存在しないが、両書では信濃海外協会が開設したとの理由で、アリアンサ移住地をブラジル信濃村と呼んでいる。移住地開設時に長野県出身者が比較的多かった(二〇%)という事実はあっても、移住地を開設した信濃海外協会の諸資料にも「ブラジル信濃村」という表現はないはずである。

郷党的親睦思想 これは小平千文氏(長野県立歴史館研究員)の「郷党的親睦思想の移植民政策と戦争」という論文で規定されている考え方で、同郷人が結束することによって生まれる排他的で自己中心的な考え方を言う。長野県の歴史学者の間では一般化した考え方のようだ。
 小平氏の論文は、敗戦直後、ブラジル移住者の間で起こった臣道連盟テロ事件から説き起こしている。臣道連盟テロ事件とは「勝ち組・負け組」事件とも言われ、日本の敗戦を信じようとしない勝ち組と呼ばれる狂信的なグループが日本の敗戦を認めようとする人々を次々暗殺していった事件で、これは戦後数年間におよんだ。小平氏はこの勝ち組の思想背景を排他的な郷党的親睦思想が生み出したものとし、その郷党的親睦思想によって建設された移住地としてアリアンサ移住地をあげている。
これは全く歴史的事実とは違う。アリアンサ移住地を郷党的親睦思想で建設された村とする根拠は、大正一〇年の信濃海外協会設立趣意書に「郷党的親睦を善用する意味よりするも、地方的協力が最も効果の大である事は信じて疑はぬ次第であります」という文言があるということからだが、現存する移住地を調査もせず、趣意書の文言で移住地の性格を規定するのは乱暴すぎる。

皇国思想 天皇中心の思想。明治以降、一九四五年の敗戦を迎えるまでは、長野県に限らず日本はすべて皇国思想に基づいて政治が行われる国であった。

満州・満蒙開拓・満蒙開拓青少年義勇軍 満州とは一九三三(昭和八)年に日本が軍事力を背景に中国東北部につくった満州共和国のこと。特に北部のソビエト共和国、モンゴル共和国に近いあたりを満蒙(まんもう)と呼び、軍事的防衛をかねて多くの日本人開拓地がつくられ、これを満蒙開拓と呼んだ。また、十四歳以上の青少年に軍隊式の集団訓練を施し、少年による開拓事業を満蒙開拓青少年義勇軍と呼んだ。長野県からの参加者は日本一だった。

一県一村構想 長野県の満州移民で最も特徴的なことは分村移住を進めたことである。たとえば全国的に有名になった大日向村(おおひなたむら)は、文字通り村を二つに分け、一方を満州に送り出して満州大日向村をつくった。両書の著者はアリアンサ移住地をその原型としているが、アリアンサが建設された一九二三(大正十二)年当時には一県一村構想という考え方は存在しなかった。一県一村構想が打ち出されたのは一九二七(昭和二)年に公布された海外移住組合法からである。両書の著者らが、なぜこの海外移住組合法を問題にしないのか疑問である。

信濃教育会 明治以降、長野県を教育県として有名にした長野県の教職員団体。長野県では一九三八(昭和一三)年以後、多くの青少年が教職員の説得によって満蒙開拓青少年義勇軍へ送り出され、全国一の送出県となった。「義勇軍と信濃教育会」では、その原因は信濃教育会の皇国思想(天皇中心主義)にあるとし、そのはじまりは信濃教育会が中心になってすすめたブラジル信濃村建設にあると主張している。

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