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日本力行会について

 ブラジル日系社会には日本力行会の出身者が多い。戦後は地方の二世のためにアルモニア学生寮を建設し、そこから多くの人材を育てている。当初は在ブラジル力行会員有志の事業として始められたが、在ブラジル同胞のための事業という趣旨から、一九四九年に財団法人サンパウロ学生会に寄贈している。

 サンパウロ州ポンペイヤ市には有名なニシムラ農学校があるが、この学校の設立者も日本力行会員の西村俊治さんである。

 戦前の移住者の間ではアリアンサ移住地は日本力行会の永田稠が開設した移住地として知られていたが、公式には信濃海外協会の移住地ということになっているため、資料に名を残すこともなく、現在では長野県の関係者でもアリアンサ移住地は長野県がつくった移住地だと思っている人が多い。

 輪湖俊午郎は力行会員ではないが、永田稠を助けてアリアンサ移住地建設にかかわった縁で、終生ブラジル力行会の活動を支援している。

 日本力行会は一八九七(明治三〇)年にキリスト教(プロテスタント)の牧師・島貫兵太夫が東京神田に開設した苦学生支援組織から発展したものである。経済的に貧しい学生や勉学志望の若者たちを支援するボランティア団体とイメージしてもらえばばよい。地方から上京した苦学生のための寄宿舎を持ち、現在で言うアルバイトの斡旋をしたり、協賛する私学で学ぶ場合は学費の軽減や入学金の免除などを働きかけていた。

 日本力行会は当時労働力の不足していたアメリカやカナダに貧しい青年たちを送り込み、お互いに助け合って勉学をつづけるというネットワークを持っていた。こうした活動は当時のキリスト教会からは理解されにくく、日本力行会は独立したキリスト教会派となっている。

 日本力行会は永田稠の代になって大きな組織に発展する。一九二〇年に永田が中南米歴訪の旅に出た頃はすでにアメリカ、カナダ、キューバ、ブラジル、アルゼンチンに力行会支部があり、情報の収集やスケジュール作成には各地元の力行会員が全面的に協力している。その点で、当時の日本力行会は政府や商社とは別次元の、もっとも海外事情に通じた組織であった。

 国際連盟の事務次長を務めた教育学者新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)は日本力行会顧問として、この運動を積極的に支援している。新渡戸の甥の太田秀敏もアリアンサへ渡り、ユバ農場創立メンバーとなるが、若くして黄熱病で亡くなった。


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