HomeHome
移住史ライブラリIndex | 移住年表 | 移住地図 | 参考資料

1997年7月、クリチーバ市の娘さんのお宅で 二木秀人さん (ふたつぎ・ひでと)

一九一一年、長野県生まれ。松本中学卒。一九三二年、日本力行会員としてブラジルに渡る。一九三四年ソロカバナ師範学校に学び、日本人子弟の教育に当たる。
 戦後、ブラジル力行会が二世子弟のために設立したサンパウロ学生会初代理事長。長野県人会会長を歴任。二〇〇二年、クリチーバ市で没。享年九一歳。

 輪湖さんの人柄
 戦後、力行会がサンパウロ学生寮をつくるとき、輪湖さんに指導をお願いしたんですが、一言で言って輪湖さんは博覧強記、細心の注意をもって大胆な仕事をする人でしたね。原稿を六枚頼むと、きっちり二四〇〇字書く人でした。文章を書く上では北米の新聞社で活字を拾った経験が非常に役に立ったと言っていました。チエテでは自分のうちに印刷所をつくってました。
 またいっぷう変わったところのある人で、これは明日の分だ、これはあさっての分だと言いながら食べていた。その代わり少々絶食しても大丈夫でした。碁を打つと徹夜しても平気な人で、放浪癖もありましたね。とにかく若い人には大変人気がありました。
 わたしは長野県三郷村の生まれで、輪湖さんの奥さんの浅野利津江さんと私の兄嫁とが従姉妹同士でした。そんな縁で、輪湖さんが昭和五年に帰国したとき兄の紹介状を持って浅野家(松本市島立)へ輪湖さんを訪ねたことがあります。

 チエテ時代の輪湖さん
 ブラジルへ来て長野師範卒の二人と一緒に、師範学校に入るために死に物狂いで受験勉強をしました。それでやっと教師になれました。
 学校の冬休みに、ブラ拓から頼まれてアリアンサ移民をサントスからアリアンサまで連れて行ったことがあります。そのとき、アリアンサでは渡辺農場(日本力行会南米農業練習所の通称)でしばらく厄介になりました。輪湖さんはもうアリアンサ理事を辞任されてチエテ(移住地)へ移られた後でしたから、ついでにチエテまで馬に乗って行きました。
 ちょうどチエテ橋が半分できていましたね。輪湖さんの家はまだ出来たばかりで、チエテ御殿と呼ばれてました。わたしはチエテ御殿最初の客だったわけです。輪湖さんはよろこんでくれました。ピンガ(ブラジルの地酒)を出されたんですが、当時の力行会員は禁酒禁煙でしたからね、辞退したら、「なんだ、こんなうまいものを飲まないのか」と、見せびらかすようにチビリチビリやりながら、輪湖さんの教育論を聞かされました。「わしの方針は、自分の子どもはまず土になじませることだ。子どもらがその子どもを学校にやればいい」と言われたのを覚えています。
註・チエテ移住地は昭和三年、輪湖俊午郎が海外移住組合連合会現地理事・初代開発主任として開発に当たった移住地。移住地は鉄道の駅からチエテ川を挟んだ対岸にあり、初期には筏式の渡し船で渡っていた。移住者が待ち望んだチエテ橋は、輪湖俊午郎が州政府と交渉して架橋の約束を取り付けた。だが、「チエテ十年史」には、輪湖が開発主任だったことも、架橋の折衝に当たったことも記録されていない。

 アルモニア寮の建設
 戦争中は日本人は集会禁止でほとんど集まることが出来ませんでしたが、終戦後、ある人が亡くなったのでミサをやりました。そのあと、別室で最初の力行会の総会を開きました。戦争も終わったのだし、これからは何か二世のために残すものをやろうという話になりました。ブラジル人は勉強するにも友達を呼んで飲んだり食べたりするが、二世にはそれができない。会館を造ろうということになって夢が広がりました。問題は誰が金を出すかです。運動として広くコロニアに呼びかけるには、やはり輪湖さんにお願いするしかないということになり、(六〇〇キロ離れた)チエテまでお願いに行きました。
 世の中には何をやっても反対派がいて一筋縄ではいきませんでしたが、輪湖さんにはそれを引っ張っていくリーダーシップがありましたね。輪湖さんという人は話題が豊富で人を惹きつけるのだけど、金のことは決して口にしない人でした。そこで、力行会の破魔さんや村上さんがついて行って、「ひとつよろしく」とお願いするとふしぎに金が集まりました。
 募金行脚してくると一ヶ月ばかり学生寮に滞在して若い人と話すのを楽しみにしていました。どこまでがほんとかわからないが、とにかく話の面白い人でしたね。ニューヨークからブラジルへ来るとき、船に乗り遅れて、モーターボートで船を追いかけて、ボートからこうもり傘を持って縄梯子をよじのぼったって話は、繰り返ししてましたよ。
 アルモニア学生寮の建設は輪湖さんなしでは実現できない事業でした。輪湖さんはチエテからわざわざサンパウロまで出てきて下さって、破魔商会の一角にベッドを置いて寝てました。全くの無償奉仕でした。

 永田・輪湖・北原
 大風呂敷を広げるという点では永田会長と輪湖さんは一脈通じるものがあったようです。わたしが神戸を出航するとき永田会長が送って来てくれましたが、「おい、あとは知らんぞ。勝手にやれ」とまるで捨て子をするような送り方でしたよ。その点、北原さんは全く対照的で、まじめな人でした。
 輪湖さんがアリアンサの理事を辞めてチエテへ移った事情はわたしらも知りたいと思ったけど、輪湖さんはあまり言いたくなかったようです。だからわたしらも聞きませんでした。

一九九七年七月二〇日、クリチーバ市の娘さんのお宅で

>次へ

Back home