HomeHome
移住史ライブラリIndex | 移住年表 | 移住地図 | 参考資料

1997年6月、東京・小金井の現代座にて 永田 忍さん(ながた・しのぶ)

 アリアンサ移住地創設者・日本力行会長永田稠の長女。
 二〇〇〇年三月二〇日没。享年八十六歳。
 一九九七年六月九日・東京小金井の現代座においでいただいて、永田稠と日本力行会についての話を伺うことができた。

 救世軍の山室軍平との関係
 わたしは大正二年のアメリカ生まれですが、どんな迫害にも耐えるようにと、忍(しのぶ)と名付けられました。当時のアメリカは日本人への迫害がひどかったですからね。
 父がキリスト教の信仰に目覚めたのは日露戦争で北海道から出征するとき、仙台駅で婦人会の人から慰問袋を貰ったんだそうです。その中に新約聖書が入っていて、戦争中、それをずっと読んでいたそうです。運がいいというのか、たくさんの戦死者を出した二〇三高地の戦いに参加したとき、総攻撃の前夜にひどい下痢をしたんで残されたんだそうです。
 父はカリフォルニアで農民運動のようなことをやっていたわけですが、島貫先生(初代会長)に日本に帰って力行会の会長を継ぐようにと言われて、父はやっぱり迷ったそうですよ。それで山室さんに手紙で相談したようですね。山室さんは日本に帰ってきた方がいいと言うことで、それで決断したんだと思います。大正三年の暮れに帰国しました。
 註・山室軍平は社会鍋で知られるキリスト教救世軍日本支部の創設者。当時、永田稠はカリフォルニアで日本移民中央農会を組織するために活動していた。

 新宿中村屋との関係
 力行会の小竹町(練馬区)の土地は大野さんから三千坪買ったんです。だけどお金が払えなくてね。大晦日になると借金取りが押しかけてくるんですよ。それで女なら殴られないだろうってんで、わたしを金庫の前に置いて、みんなどこかへ隠れてね。大変でした。
 相馬さんが中村屋をはじめたころ、栄養不足にならないようにと、力行会に乳牛を一頭寄付してくれましてね。それで小竹町に牛小屋をつくって、みんなで乳を搾ったんですよ。力行会に製パン部をつくったのも相馬さんの指導でした。そのパンを売って歩いて、運営資金にしていたんです。後に代議士になって、生活保護法を制定する中心になった長谷川保さんも力行会でパンを売って歩いていました。
 中村屋の息子の相馬文雄は学生寮にいて、みんなから「フミちゃん、フミちゃん」と呼ばれていました。おとなしい子でね。でも、野球は上手だったようですね。弓場勇さんの奥さんになった今井ハマちゃんもうちで家事の手伝いをしていました。この人は今井新重さんの娘さんで、ご両親がスペイン風邪で亡くなられて、どうしても父の意志を継いで南米に行きたいってうちへ来たんです。二人とも十七、八でしたか。
 みんな力行会の農場で真っ黒になって働いていましたね。それでも、月に一度はすきやき会を開いて、人生や芸術や好きなことを話す習慣がありました。みんなそれを楽しみにしていました。
 註・新宿中村屋の経営者相馬愛蔵の四男文男は昭和二年、日本力行会員として十七歳でアリアンサへ渡るが、無断でアリアンサの若者二人と粟津金六のアマゾン調査団に随行。昭和四年、マナウスで悪性マラリアにかかり病没、二十歳。そのことを母相馬黒光は永田の監督不行届だと本に書いたが、愛蔵が永田のところへ謝りにきた。愛蔵は日本で墓碑を作り、船で文男の没地マナウスへ運んでサン・ジョアン・バチスタ墓地に建てた。

 海外協会中央会
 中央会(広島、和歌山、信濃など海外協会の連絡会)の事務所は丸ビルにありました。わたしの記憶では、丸ビルの八階に西洋軒というレストランがあって、ナイフとフォークの使い方を教えられたのを覚えています。
 父が拓務省の設置(昭和四年)に大きな期待をかけていたことは事実だと思います。鎌倉の家が火事になって、手紙や日記などみんな焼けてしまったんで、今となっては本当のところどんなことを考えてたのかわかりませんけど。

 多田勝治の死
 満州事変の後だと思うけど、(昭和七年頃)、農場支配人の多田勝治さんはモスクワ大学を出たマルクス主義者で、父はこの人をかくまっていたんです。人格者でね、若い人から大変尊敬されていました。ところがとうとう警察が踏み込んできてね。警察が取り囲んでるのはすぐわかったんで、多田さんは庭師のはんてんを着て、正門から出て行きました。結局その後逮捕されて、池袋警察の拷問で亡くなられました。遺体を引き取りに行ったのは古田順三さんです。

 三浦鑿の死
 三浦さんは拘置所では相当ひどいことされたらしいですね。終戦の時釈放されて、這うようにしてうちまで来られたそうです。結局うちの離れで亡くなられたんだけど、わたしは終戦の直前の七月に空襲を避けて、お産のために諏訪(長野県)の下古田(しもふった)に疎開していたんで、直接はお会いしてないんです。
 註・三浦鑿(みうら・さく)はブラジルの日伯新聞社長。皇室を批判したことで日本の軍部からにらまれていた。日本滞在中の昭和十六年、ブラジルへ戻る輪湖のために永田と三浦で送別会を開いたが、その時の発言が特高警察に聞きとがめられ、終戦まで巣鴨拘置所に留置された。釈放数日後、永田家で亡くなる。

1997年6月、東京・小金井の現代座にて

>次へ

Back home