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アリアンサをたずねて 1

粂川正子  粂川正子(くめかわ・まさこ)

 栃木県国際交流協会日本語教師、一九九九年、慶応大学文学部の卒業論文『アリアンサ移住地建設にみる大正期の移住とキリスト教』を発表。栃木県宇都宮市在住。

 この「アリアンサ移住地訪問記」は二〇〇三年十月に、木村快さんからのご依頼で書いたものです。数年前の思い出を、頭の引き出しから引っ張り出しながら書いたので、正確に書いたつもりですが、私の記憶違いなどありましたら、どうぞお許しください。
 たった二日間のあわただしい旅ではありましたが、実際に自分の目でアリアンサ移住地を確かめることができたのは大きな収穫だったと思っています。そしてその結果、私の目から見た『アリアンサ移住地建設にみる大正期の移住とキリスト教』という論文を書き上げました。お世話になった方々に心から感謝申し上げます。
 また、悲しく、残念なことですが、その時にお会いした馬場秀雄さんや、箕輪勤助さんは、その後、他界されてしまいました。懐かしい思い出を胸におさめつつ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 大正時代の日本人移住地

 一九九九年三月十七日、私は大学の卒業論文を書くために、まずブラジル・アリアンサ移住地の現地視察をしようと主人と共に日本を飛び立った。主人の仕事の都合もあって、たった十日間の旅である。
 私は、十五〜六年前から栃木県国際交流協会(T・I・A)で、県の海外技術研修生に日本語を教えている。そして毎年、南米からの日系人研修生に出会っていた。日本語が片言しか話せず、スペイン語やポルトガル語を母国語としている日系人研修生に接しながら、いつしか私は彼等の祖父母や曾祖父母にあたる日本人移住者一世達に関心を持っていた。そして、好運にもT・I・Aで仕事をされている石川アンナさん(ブラジル力行会会長・永田久さんのご令嬢)と親交を持ったことがきっかけで、彼女のお祖父さんがブラジルに「アリアンサ移住地」を創ったことや、「日本力行会」の存在などを知ることになった。
 約八十年前の大正時代に一体何が起こっていたのか。日本の地を離れてはるばるブラジルに移住地を創るとは、どういうことなのか。それを実行した「永田稠(ながた・しげし)」という人物はどのような人だったのか。私はこれらの好奇心を胸に秘めて、アリアンサ移住地を目指してブラジルへやってきたのである。そのため、この旅では宇都宮市在住の石川アンナさんを通じて、ブラジル在住のご両親である永田久さんご夫妻にお世話になることになった。永田さんは、私たちのためにアリアンサ移住地を案内してくださることになり、短い旅の時間を有効に使えるよう効率的にスケジュールを組んでくださったのである。
 というわけで、三月十八日にサンパウロ市に到着した私達は、翌日、永田家にお邪魔し、一晩泊めていただいた後、二十日の早朝、永田さんの運転する車でアリアンサ移住地まで約六〇〇キロのドライブがスタートした。サンパウロ市の建物におおわれた大都会の喧燥を離れ、カンピーナスを通り、しばらくすると、辺りはのんびりした郊外風景に変化していった。
 所々に果樹園や砂糖きびの畑などが見え出す。さらに車はアララクアラに向かってひた走る。すると日本では見たことのない風景を目にするようになった。遠目には赤い大地に群れている白馬のように見えたが、そばでよく見ると背に瘤のある白い牛たちだったり、少し小ぶりの石柱群かしら、と思わせるような蟻塚がいくつも見えるのである。珍しい眺めを楽しみつつ、一方で、サンパウロ市から内陸のマットグロッソ州に向かうこの−帯は、今や遠くまで眺め渡せる大地であるものの、コーヒー生産に湧く以前は太古の原始林だったのだろうと想像しながら、また、その原始林開拓に挑んだ日本人移住者に思いを馳せていた。

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