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長野県 アリアンサ移住地史の再検討に着手
ブラジルでは全アリアンサ統一移住地史の編纂に着手

 九月二日、長野県総務部国際課長青木弘氏と担当職員清野英友氏がありあんさ史研究会東京事務局(NPO現代座内)に来訪され、長野県として正式にアリアンサ史再検討に着手することになったとの報告がありました。現在のところ、どのような人選が行われ、どのような形ですすめられるのかはまだわかりませんが、年内に再検討委員会が発足することは間違いないようです。
 ありあんさ史研究会で山川出版社刊「長野県の歴史」が問題になったのは一九九七年のことでした。ありあんさ通信第八号でアリアンサ移住地についての歴史記述の誤りを指摘したのが二〇〇〇年十一月、さらに二〇〇〇年に出版された大月書店刊「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」にも同様の誤解があることを指摘したのは二〇〇二年五月の十一号です。
 ずいぶん時間はかかりましたが、責任は著者にあるとして無視する出版社の態度は論外として、田中康夫知事自身がアリアンサ移住地を訪問され、アリアンサ史の再検討を約束されたことで、この問題を担当したわたしの役割は終わったと考えています。
 日本の歴史書がブラジル移住について間違った記述をする原因の一つは、現地を調査しないで記述することにもありますが、最大の原因は日本の歴史学会が移住史を除外し、戦前の移住資料を再検討することなく放置してきたためだと思います。このため、地方の研究者が誤った解釈をすることは一概に責められません。アリアンサ移住地史を再検討することはブラジル移住史全体を再検討することにつながり、これはそう簡単なことではありません。専門家がその気にならなければなかなか道筋がつけられないのではないかとの意見を伝えました。(木村快)


新たなアリアンサ移住地史の編纂

アリアンサ八十年史編纂委員会 矢崎正勝

 去る六月七日、アリアンサでは移住地史編纂のための全アリアンサ特別会議が開かれた。
第一、第二、第三合同のアリアンサ移住地史編集委員会 第一、第二、第三各アリアンサから、計二十四名の編纂委員が選出され、正式に委員会が発足した。特別研究委員として、在日本の木村快さんと渡辺伸勝さん(十七号紹介)に参加して頂くので総勢二十六名になる。また、各アリアンサにそれぞれの母県、長野、鳥取、富山から赴任しておられる日本語教師の方にも加わって頂いて、主として広報と教育の部を担当して頂くことになった。広報とは母県の団体への資金援助や資料収集などに対する協力依頼で、教育とは本来の日本語学校実務を通じての生徒達へのアリアンサ史の普及である。
 第一アリアンサは昨年八十周年を迎え、第二アリアンサ、第三アリアンサも来年、再来年とそれぞれ八十周年を迎える節目の時期である。当初は第一アリアンサのみで独自に八十年史を出版する予定であったが、過去、一九三四年から一九七七年までに、第一アリアンサ創設十年史、二十五年史、四十五年史、第二アリアンサ四十五年史、第三アリアンサ五十年史の五冊の立派な移住地史が出版されてはいるものの、それ以後今日まで新たな歴史が記されていないことから、二〇〇八年に迎える日本移民一〇〇周年を期に、全アリアンサ統合の記録としての移住地史を発刊する方向へと変更したのである。
 他の多くの移住地でも、二十五年史、三十年史位までは発行されているが、それ以後の記録はやはり殆どまとめられていないようだ。これは、近年一世から二世、三世へと世代交代が行われるようになって、その生活が主として経済発展の方向へと向けられ、歴史や文化を顧みることがあまり重視されなくなってきたためでもあった。
 だが、こうした長年置き去りにされてきたアイデンティティの見直し的現象が、今、この移民一〇〇周年に向けて各地の移住地や文化協会、県人会などで活発に起きてきている。ごく身近なところでは、ブラジル拓殖組合(昭和二年に設立された海外移住組合連合会の現地機関)の三大移住地と言われ、アリアンサの兄弟移住地とも言えるペレイラ・バッレト市(旧チエテ移住地)、バストス市(旧移住地)、パラナ州のアサイ市(旧トレスバラス移住地)などで記念誌編纂や移民資料館の設立、或いは大々的な整理立て直しが始まっている。しかも、アサイの記念誌は、二世三世が中心となってポルトガル語で編纂し、更に日本語に訳して完成させたと聞き及んでいる。
 しかし、何れの地域でも現在までの空白をしっかり埋めて充実した移住史を作成することは大変なことで、既に立派な記念誌として発行されているものを頂いたりするとそのご苦労を思って頭の下がる思いである。
 我々の移住地でも、第一アリアンサは一九六八年、第二アリアンサは一九七二年、第三アリアンサは一九七八年から今日までの歴史を全て調べ直さなくてはならないし、当然のことながら、それ以前のものも書き写すだけではなく改めて検証し、記述違いなどを是正して行かなければならないのだから、そのことだけでも相当な手間と時間を要する。しかも、今回はポルトガル語併記という新たな作業も加わるので、手間暇のみならず費用の面に於いても大変な事業になることであろう。
 ただ、何れの記念誌を見ても編集後記に、提案されてから三、四年が経ってしまったなどと記されているのを見て少し安心もするのだが、現在移住史を編纂するにあたって、その当時との決定的な違いは、のんびり構えていると大事な証人であるお年寄り達がどんどんと旅立たれてしまい、貴重な資料である情報が採取できなくなってしまうことである。これは、ここ数年聞き取りなどの取材をしつつ痛感していることである。
 先日も(十一月八〜十二日)サンパウロ市においてジャイカ(国際協力機構)主催で行われた「記念誌編纂 理念と実践」というセミナーでは、各地の団体で編纂に携わっている青年ボランティアによる実践状況や事例の報告が行われ、前述のような状況下での取材や作成の困難さなどが協議され、情報交換やコメンテーターからの指摘などを交えて熱の入った会議が成されていた。
 この度の全アリアンサ共同の移住地史作成を是非にと提言し、自らもその編纂に特別研究員として参加協力を約してくれたのは、先の十七号で紹介した渡辺伸勝さんで、関西学院大学大学院言語コミュニケーション文化研究科在籍中であるが、昨年八月から一年間、弓場農場に滞在し「三世、四世の子供たちが日常会話の中で日本語を使っている現実は移住地の中で非常にめずらしい現象であり、その理由を解明して博士号論文としたい」と体験生活をしていた方である。そしてその滞在中に、弓場農場の存在自体や日本の移民史上に於いても特異とされるアリアンサ移住地の成り立ちに深く興味を持つようになり、ついにはその移住地史編纂に是非とも関わりたいと申し出てくれたのである。しかし、彼は現在自己の研究課題に取り組んでいる最中であるため、一年経った今年七月、一旦帰国復学して研究成果をまとめ発表、その後再渡伯して参画してくれることとなった。この申し出はアリアンサにとって実にありがたいものであった。なぜなら今回選出された地元の委員達は、殆どが移住史編纂などということは未経験であり、作成したい思いはあるものの非常に困難なことであると感じていたからである。
 とは言え、その彼も言語研究が専門であって歴史家ではないので、来伯するまでにその方面の勉強をしてお役に立ちたいとまで言ってくれてはいるが、それもまだ一年余の後のことであるので、現在ジャイカに学芸員の来年度派遣を要請中である。


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