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アリアンサ移住地史今後の課題

渡辺伸勝木村快 アリアンサ八十年史編纂委員・渡辺伸勝さん(左)は関西学院大学大学院言語コミュニケーション文化研究科に在籍しながら、現在アリアンサ史の日本側編纂員として資料を収集しています。
 一昨年からユバ農場に滞在していますが、博士論文執筆のため七月に帰国。日本側で資料を収集した上で、来年春、再びアリアンサへ向かう予定です。
 七月と十一月、アリアンサ移住地と東京事務局のパイプ役として、進行状況の報告がてら、資料整理のため東京事務局に滞在しました。

渡辺 今度アリアンサ移住地八十年史編纂員会ができましたので、その報告と少々教えていただきたいことがありますのでお伺いしました。当初は第一アリアンサの八十年史ということで話が進んでいたのですが、この際第二アリアンサ、第三アリアンサも含めて、全アリアンサで取り組もうと言うことになり、第二、第三もふくめた編纂委員会ができました。

木村 うまく行くといいね。第一、第二、第三は昭和六年に海外移住組合連合会の介入で分断された歴史があって、しっくりいってなかったからね。期待してます。

渡辺 ぼくは実は少数派民族としての日系ブラジル人の日本語を研究するために一年間ユバ農場に滞在させてもらいました。ユバ農場のことは全く知らなかったのですが、サンパウロ文化協会で自分の目的をお話ししたところ、吉岡会長さんが「それならユバがいい」ということで紹介していただいたのです。
 当初はコトバの研究ということもあって、必要以上には人間関係の中に入らないようにしていたんです。もちろん、農作業は皆さんと一緒にやりました。けれどある段階から、やはりこの人たちと同じ感情を持たなければわからないことがあることに気がついたんです。ちょうどアリアンサ移住地八十年史の話がはじまったとき、アリアンサの人たちはある程度日本語を話せても書くということは大変なわけです。やはりある程度ものを調べたり書いたりすることでお手伝いしなければと考えるようになりました。
 ちょうどバストスの移住資料館にJICA(国際協力機構)から派遣されてきた学芸員の中村さんという方がおられるんで、二度ほど中村さんをアリアンサにお呼びして、移住史の持つ意味、その取り組み方などについて編纂委員会で話してもらいました。アリアンサを位置づけるためにはブラジル移住史がちゃんとしてなくてはいけないんですが、頼りになる研究も乏しく、日本側では移住史が体系化されていないこともあって、あらためて、木村さんも大変ご苦労なさってるんだなと思いました。

木村 でも、田中知事が現地を視察されて、まあ歴史的経過はこれから調べ直すにしても、少なくともアリアンサが山川出版社の「長野県の歴史」や大月書店の「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」に描かれているような移住地ではないということだけははっきりしたからね。長野県もアリアンサ史再検討委員会を発足させるようだし、アリアンサでも八十年史編纂委員会ができたのなら、ぼくの役割はひとまずこれで終わったと思っています。

渡辺 木村さんがブラジル移住史を調べようと思われたのはなぜですか。

木村 ぼくは一九九四年からアリアンサ移住地の設計者と言われる長野県松本市出身の輪湖俊午郎(わこ・しゅんごろう)のことを調べてたんで、ブラジル移住史は輪湖を理解するための最低限のことがわかればよかったんです。ところがその最低限のことがわからない。輪湖は海外移住組合連合会がブラジルで仕事を始めたときのブラジル側理事だったはずなのに、それを記録したものが見あたらない。バストスやチエテなど大移住地が生まれた経過もよくわからない。日本側の資料で当たろうとしても、ほとんどまともな資料がない。日本人移住地はほとんど姿を消してしまったのに、アリアンサだけはなぜか二十一世紀の現在まで存在している。それを説明してくれる研究者もいない。それで自分なりに調べ始めたんです。

  アリアンサ移住地と海外移住組合法

渡辺 ぼくも歴史は専門外なのでこれから勉強しなくてはならないんですが、木村さんが扱われた文献でこれはぜひと思われるものはどんな文献ですか。

木村 ぼくの知っている限りで言えば、総合的な基礎文献としてはやはり「ブラジルにおける日本人発展史」だね。これを読んでやっとブラジル移民史の骨格がつかめた。これは昭和十六年に紀元二千六百年記念事業として外務省の外局だったラテンアメリカ協会が編纂したもので、ブラジルに関係したお偉方を総動員した刊行委員会がつくられている。上下二巻菊判八百ページ以上のものだが、実際にはその大部分はブラジルから輪湖俊午郎が呼ばれてきて書いたものです。データは当時の拓務省、外務省のものを両省の職員がチェックしているはずだから、基礎資料としては間違いない。問題は当時の国策にとって都合の悪いことは一切省かれているということ。一手に移民を送り出した海外興業株式会社や海外移住組合連合会のことについては都合のいい面しか記述されていない。
 ところが輪湖俊午郎は「伯剌西爾(ぶらじる)時報」が創刊されたときの編集長だし、海外移住組合連合会のブラジル側理事でもあったわけで、大変悩んだようだ。そこで海外興業株式会社が出きたいきさつ、実際にどんな仕事をしたのか、また、海外移住組合をめぐる内務省と外務省の対立、海外移住組合連合会の顛末などを自伝という形でこっそり日本で自費出版している。それが「流転の跡」です。まず、この二つをセットにして読むといい。
 今年はNHKが開局八十周年ということでブラジル移民をあつかった「ハルとナツ」という大ドラマを放映して結構話題になった。昭和九年に貧しい農民が移住宣伝にのせられてブラジルへ渡ってみたら、聞いた話とは全く違う無権利状態で働かされ、帰国の船賃はおろか、その日の暮らしにも事欠いたという苦労話でね。しかし、船賃を出して積極的に送り出したのは政府であって、手数料を取ってブラジル人農園に売り渡したのは国策会社・海外興業株式会社だったということはついに出てこなかった。さすがNHKだ。すべて個人の不運だという話になっている。

渡辺 海外興業株式会社の定款を読んでみて気がついたのは、アリアンサの定款と全く対照的だと言うことです。アリアンサを考えるにはやはり海外興業株式会社からの流れを調べなくてはいけないですね。

木村 海外興業は大正六年の寺内内閣の時代に作られた国策会社で、そのために東洋拓殖株式会社法を改定して、政府資金を活用できるようにしている。しかし、政府が移民政策を意識し始めたのはもっと前で、明治四十一年に青柳郁太郎や大浦兼武が「海外植民政策に関する意見書」を桂内閣に提出している。その流れがイグアッペ植民地や海外興業株式会社の設立につながっている。

渡辺 木村さんが問題にされている海外移住組合法の原案は長野系の今井五介や津崎尚武が出した案とは別な案もあったと聞きますが。

木村 あると思う。永田の著作を読むと、海外移住組合法は永田稠がブラジルに造る移住地のために、従来からあった産業組合法を適用できないかと農林省の小平権一に相談したところから始まったようだ。時期としてはアリアンサの資金を集めていた大正十二年末から十三年春だと思う。
 移住地への産業組合法の適用については、大正十一年に有島武郎という作家が父親の持っていた北海道の農地を農民に無償で開放して、共産農園を造ろうとしたことがある。しかし土地の共同所有は法律的に不可能なんで、大正十三年に産業組合法による「有限責任狩太(かりぶと)共生農団信用利用組合」を作って、土地を組合所有にして、潅漑事業などの助成も受けたという実績がある。
 ところが、産業組合法は北海道では適用できても、主権の及ばない海外移住地では適用がむつかしいということで、小平に頼んで海外移住地に適用できる「移住組合法」を書いてもらい、大正十四年に津崎尚武(長野県選出衆議院議員)の手を通して議会に建議案を提出している。しかし翌大正十五年に審議未了でいったん流れる。そのとき外務省の石射猪太郎移民課長から、法案名を「移住組合法」ではなくて「海外移住組合法」にしてくれればいろいろ便宜を図れると言われて、了承したんだと言う。
 アリアンサ移住地は信濃だけでなく、鳥取も信濃と共同で第二アリアンサの準備が進んでいたし、富山や熊本も準備を進めていたから、アリアンサをサポートする組合法の必要は誰もが認めていた。ところが昭和二年に成立した組合法の内容はアリアンサを除外したとんでもない内容だった。つまり、政府はアリアンサブームの流れを利用して国策のための移住法にすり替えたわけで、国策案はそれ以前からどこかで準備されていたはずだ。だから、最初の永田原案から、実際の「海外移住組合法」へ、内容がどう変わっているかを調べてみたらいいと思う。

  ブラジル移住史の謎

渡辺 日本のブラジル移住史でもブラジル側の移民史でも海外移住組合法についてはほとんどふれてないようですけど、何が原因なんでしょうねえ。

木村 移住が国策で進められたことを今さら蒸し返したくないという力が働いてきたんだろう。だからブラ拓(連合会の現地機関)設立期の歴史には触れないで、二代目の宮坂専務時代からの歴史だけになっている。当然、輪湖もアリアンサも消える結果になった。
 海外移住組合法が成立すると即座に内務大臣を会頭にした海外移住組合連合会が設立され、初代連合会専務の梅谷光貞は三百万円の政府資金を携行してブラジルへ渡り、輪湖のサポートでアリアンサ形式のバストス、チエテ、トレスバラスの大移住地を造り、いわば日系社会の土台を築いた。これは戦後永田が書いている。連合会の金融部から発展した「南米銀行五十年史」にも「内務大臣を会頭とする組織をブラジルで登記するのは不得策ゆえ……」梅谷専務は急遽計画変更のため帰国したという記述がある。

渡辺 昭和二年三月の貴族院議院議事録では、今井五介が海外移住組合法について「我が意を得たり」と賞賛し、「いつそれを実行するのか」と質問しています。今井にとって海外移住組合法はどんな意味があったんでしょう?

木村 今井五介は片倉製糸を日本を代表する大企業に育て上げた男で、原料の繭を海外から輸入していた。連合会の大株主にもなってる。移住組合法の当初のもくろみは毎年各県の移住地を八移住地ずつ建設するはずだったから、ブラジル移民による養蚕に期待をかけていたと思う。ところが、ブラジルでは昭和九年に、日本移民抑制を目的にした二部制限法が制定される。これは年間の移民受入数を従来実績の二パーセントしか認めないという法律で、日本にとっては大打撃になった。
 それで、今井五介は満州に目を向け始めたと思う。満州移住でどのような役割を果たしたのかは調べていないのでわからない。ただ、昭和六年の連合会総会で専務の職を追われた梅谷光貞が満鉄(南満州鉄道株式会社)の移民部長になったのは今井五介の口利きだったはずだ。

渡辺 山川出版社の「長野県の歴史」や大月書店の「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」では、満州移住にかかわった永田のつくった移住地だから、アリアンサもそれと同類に違いないと推論したのだと思いますが、そういう意味で、永田稠には長野県の研究者が主張するような膨張主義者的な性格はなかったのですか?

木村 なかったとは言えないが少していねいに見る必要がある。永田は満州愛国信濃村候補地選定のため、昭和七年に満州開拓地視察に出かけている。このときの「頓墾開拓地視察」では、現地住民との親和に努力すべきであり、武力を背景にした開拓地造成は長続きしないと批判している。これに対して、満蒙開拓推進派の東宮鉄男(とうみや・かねお)少佐から「満州移民は南米経済移民にあらず、新日本の建設なり」とやられている。東宮は日中戦争の導火線となった昭和三年の張作霖爆殺事件での実行責任者だ。
 永田は長野でも少数派だったようで、自説を立証するために満州信濃村とは一線を画した新京力行村を昭和十三年に開設するが、長野からの応募者は一人しかいなかった。力行村は入植時から現地住民との交流を重視していたから、敗戦時は現地住民の助力で、全員無事に帰国している。
 信濃海外協会は昭和十八年に発展的解消という名目で解散している。以後満州移住は信濃開拓協会と信濃教育会が中心になるが、永田は在郷軍人中心の人選や青少年義勇軍による開拓には批判を持っていた。この経過を調べる必要がある。

  移住史が消えていく理由

渡辺 アリアンサ史に取り組まれてきて、新しいアリアンサ史について何をポイントにすべきだと思いますか。

木村 大正デモクラシーの機運を背景にアリアンサ移住地をつくった信濃海外協会が、どのような経過で昭和期の満州移住に転換していったのかということだね。

渡辺 その転換点に海外移住組合法があるわけですね。

木村 そして連合会の主導権は長野系から財閥系へ移る。それはそのまま全ブラジル移住史の骨格を明確にしてくれるはずだ。その際、いい悪いは別にしてとにかく事実を事実として明確にすることだと思う。
 時代と人間という角度から考えると、誰の人生にも光と影がある。ぼくは植民地時代の朝鮮で生まれた。親父は妻と子ども五人を残して戦争に行って死んだ。だから、母子五人で、原爆で廃墟になった広島に引き揚げた。その点ではもちろん戦争の被害者だけど、朝鮮や中国の側からみれば侵略国の国民だし、戦争を止めようとしなかった国民としての責任もある。だから中国や韓国から戦争責任について問われると、やはり考えざるを得ない。食料や資源を外国に依存しながら、自分に都合のいい歴史観に安住していたんでは、二十一世紀の国際的共生は得られないと思う。
 戦後の日本は戦前の都合の悪い部分はできるだけ早く忘れようとしてきた。そして次の世代になるともうなかったことになってしまう。特に移住問題は満州移住を負の遺産とするあまり、移住イコール拡張主義、侵略主義に画一化されている。
 海外移住組合法が廃止されたのは昭和二十五年だが、外務委員会の議事録を読むと、政府の議案説明では海外移住組合法がどのような法律で、どのような役割を果たしたのかはきわめてあいまいにしか説明されていないし、討議もほとんどなく、債務も解決していないのに、「国策と誤解されるので」早く廃案にしてしまおうといった内容だ。

渡辺 何となくそんなイメージがありますね。

木村 戦前史を都合よく解釈して曖昧にしてきたことが、いま戦争を肯定する歴史観を復活させる土壌になっていると思う。
 アリアンサ史についても、「創設十年」「創設二十五年」「創設四十五年」と立派なものを残してるけど、肝心なことが書かれていない。昭和六年以後、アリアンサの経営権委譲を迫った連合会に対して、なぜ永田は抵抗しつづけたのか。なぜ輪湖は理事を辞任してアリアンサを去らなければならなかったのか。戦前はあいまいにせざるを得なかったのだろうが、それが戦後、逆にアリアンサを大きく誤解させる原因になった。今度はとにかくいいことも悪いことも、事実を事実として明記してほしいと思う。

渡辺 そうですね。がんばります。


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