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日本語学校は国際交流の文化センター

森脇雅子森脇雅子(もりわき・まさこ)
 一九七五年長野県岡谷市生まれ。
長野県立諏訪清凌高等学校(旧諏訪中学校)卒業。Falmouth College of Arts(イギリス)陶芸科専攻。
 二〇〇三年 日本語教育能力検定合格。英語好きが高じて、英語塾講師に。常勤講師を六年務めるかたわら、地域在住外国人支援として日本語教室の立ち上げに関わり、そこでボランティア講師をする。趣味は旅行、映画鑑賞、語学。
 二〇〇五年五月、長野県派遣教師として第一アリアンサ日本語学校に着任。学校環境の改善、保護者や地域社会との積極的な取り組み、或いは学校情報を満載したニュースレターを通じて母県の多くの学校との交流など、その活動はめざましく地域の厚い信頼を得ている。更に第一回派遣ということで一年の任期であったが、自らその延長を申し出て受理され、ますます活動に拍車がかかっている。

 私がブラジルに来てから、第一アリアンサ入植祭(二〇〇五年十一月二十日)で、ちょうど六ヶ月が経ちました。アリアンサに到着して間もなく、村をあげての歓迎会を催して頂いたときは、本当に大変な仕事を引き受けてしまったものだと感じたことを覚えています。最近はよく「日本が恋しいですか」ということを聞かれますが、そんなことは考えたこともないほど充実した毎日を送らせていただいています。まだまだ村の皆さんのご期待に添えるような仕事をしているとは思えませんが、出来る限りこれからも力を尽くすつもりです。

 任期の限られた県派遣講師ということで、弓場農場を始め村の皆さんのお気遣いにより、今まで様々な行事や催しに招いて頂きました。そこで感じたことは、ブラジル人は日系であれ非日系であれ、とにかく人が集まることを大変好むということです。また、アリアンサのような所では、どんな集まりでも必ず知り合いがいて、一人で行っても一人になることがありません。人との出会いと関係を大切にし、お互いに集まることを喜べるというのは、今の日本にはとても少なくなった光景です。生活水準も教育水準も高く、日本は進んだ国だと言われることが多いですが、生活の便利さと引き替えに、日本は人間関係の暖かさを置き去りにしたのだと、私はよく思います。この村の生活には、私が教えること以上に、教わることが大変多くあると感じています。

 さて、現在第一アリアンサ日本語学校には、ノロエステ日本語普及会第三地区では一番多い四〇名の生徒が勉強しています。また、夜学などの大人の日本語教室、私が独自に開いている英語教室も含めると、延べ人数で約七〇名の生徒がいることになります。これだけの人々が日本語学校に興味を持ってくださっているというのは、大変なことです。この中の約二〇名(全体の約 %)は非日系の生徒たちです。自ら日本語学校で勉強することを望んで入ってきたこれらの生徒達は、皆大変勉強熱心で、授業も大いに楽しんでくれているようです。

 昨年来訪された田中康夫長野県知事の提案もあり、今年度から非日系の生徒を入れるようになったという話を伺っていますが、私から見るとこれは本当に大成功だったと思います。日本語学校がこれからも村の大切な教育機関として機能していくためには、まず活発な活動が必要で、それにはたくさんの好奇心旺盛な子ども達が欠かせません。日系でも非日系でも勉強したい子どもがたくさんいることは、本当に素晴らしいことです。

  日系人も三世四世の時代を迎え、生活語としての日本語が廃れていくことは避けられない道です。しかし、日系人は紛れもなくブラジル文化の欠かせない一員となっている今、そのルーツを守り、伝えていくことはやはり必要です。アリアンサを始め、多くの移住地では日本語学校で勉強する生徒が減っている事に悩んでいると聞いていますが、私は、まだ日本語学校には新しい未来があると思っています。それは、忘れてはいけない移住の歴史とブラジルの今、そして子どもの将来をつなぐ場所として村に残っていくことです。日本語という外国語学習を通して、ブラジル文化を豊かにした移住の歴史について学び、また日本という外国との国際交流を行う文化センターになることです。これには、日系人だけでなく、非日系の人々にも多く参加して頂いたら、ブラジルにおける日系人文化の理解をお互いに深めることが出来るでしょう。それによって、たとえ村が無くなることがあっても、日本人移民がこの地に残した文化は残ることになると思うのです。日本語学校には、移住地史や資料館と同じ価値を持つ文化財産になる可能性があるのではないでしょうか。

 それには、村が主体となっての学校運営が欠かせません。今も、学校は生徒達の父兄による保護者会の運営となっていて、皆さん一生懸命運営に携わって下さっていますが、それは自分の子どもが通っている学校だから、という意識がまだまだ強いようです。「日本語学校は村の財産」という視点に立って、慣例にのっとっているばかりでなく、理念と目標を持った運営体制がこれからはますます必要になるでしょう。村全体の事業としてとらえ、皆さんがもっと積極的に関わっていく必要があるのです。

 私がこちらに来てから何度か言っていることですが、外国語学習はその言葉の習得のみが目標ではあまりに味気ないものです。言葉はコミュニケーションの手段で、習ったからには使えるようにならなければ意味がない、とよく言われますが、私は、言葉の勉強の過程で考えたり、発見したり、比べたりすることも非常に意味があると思っています。特に若いうちであればなおさらです。これからも、多くの子ども達が第一アリアンサの日本語学校に通うことで、新しい可能性を見いだせるよう努力していきたいと思います。保護者会をはじめ村の皆様、これからもご支援ご助力を宜しくお願いいたします。

▼森脇さんのホームページ
http://www.pref.nagano.jp/kikaku/kokusait/kaigai/h_nihongo/report0501.htm


アリアンサにおける日本語学校教師についての経過

アリアンサ移住地には一九二四(大正十三)年に信濃海外協会が開設した第一アリアンサ移住地、一九二六(大正十五)年に信濃海外協会と鳥取海外協会が共同開設した第二アリアンサ移住地、一九二七(昭和二)年に信濃海外協会と富山移植民協会が共同開設した第三アリアンサ移住地とがあります。
 もともと信濃海外協会の呼びかけで生まれた移住地ですから、戦前は移住地開設業務、医療、文化教育の問題は信濃海外協会が中心になって維持してきたという経過があります。
 第二次大戦が始まると、日本人移民はブラジル共和国に対する敵性国民として、三人以上の集会禁止、日本語の使用および教育の禁止が法令化され、子供たちの日本語習得はきわめて困難な事態に追い込まれます。
 戦後の日本企業ブラジル進出にあたっては、日本・ブラジル両国語ができる日系人が大きな役割を果たしました。けれど、二世、三世の日本語教育は思うように進まず、年々衰退しているのが現実です。各県は県人会を通じて人的経済的交流をすすめるようになりましたが、経済的交流に重点が置かれるため、どうしてもサンパウロ市など大都市中心になりがちで、特にサンパウロ市から遠く離れたアリアンサは母国文化との交流がますます困難になりました。
 そこで、第一アリアンサは長野県に、第二アリアンサは鳥取県に、第三アリアンサは富山県にと、それぞれ教育文化の支援を要請しつづけてきました。その結果、第二アリアンサへは鳥取県から日本語教師として現役の小学校教師の派遣が実現し、第三アリアンサにも富山県から教師派遣が実現しました。しかし、日系人の一番多く住む第一アリアンサへの教師派遣はこれまで実現しませんでした。このため、第一アリアンサはジャイカ(国際協力機構)に日本語教師をお願いしていましたが、それも二〇〇四年度までで、二〇〇五年度からは教師不在という事態を覚悟しなければなりませんでした。
 そのような折、昨二〇〇四年十一月、田中康夫長野県知事が来訪され、知事に直接日本語教師の派遣をお願いしたところ、思いがけなく宿願の日本語教師が実現することになったものです。(木村快)


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