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輝かしき開拓者

滝本克夫

滝本克夫一九二二年北海道函館生まれ 十才で両親、弟妹七人と渡伯。サンパウロ近郊のモジ・ダス・クルーゼス地区で青年団長当時、終戦の報に接し、信じられず思い悩んでいた折に弓場勇(農場創設者)に出会い、その理想に共鳴して弓場入りして以来今日に至っている。仕事の面でも未だ現役だが、音楽、芝居などが好きでクリスマスの芝居出演は一度も欠かしたことはなく、更に四十代後半より始めたピアノ練習も今日まで一日も休まずに続けるなど絶えず率先して弓場イズムを実践してきた。(クマさんの愛称で慕われている)

バレエを始めて今年で四十五周年になる。早いものだ。僕は開演中の舞台の緊張感が好きだ。出演中の全員が同じ一点に全神経を集中する、その表情が好きだ。
弓場の舞台の演目はたくさんある。その中に、『輝かしき開拓者』という演目がある。私はこの『輝かしき開拓者』を演じていると、少年時代のあの広大な原始林と、その中で立ち働く父を始め、多くの人達の姿が目に浮かんでくるのだ。
少年時代、自分は両親、弟妹共々、チエテ移住地、今のペレイラ・バレット(アリアンサの隣の市)に住んでいた。今ではもう見ることが出来なくなったが、そのころは一帯が原始林であった。家のあちらこちらにも焼け残った太い原木が転がっていた。そして、マッシャード(斧)やトランサドール(大鋸)を使って立ち働く村人たちの姿が遠くあちらこちらに見えるのだった。
 原始林には猿が時々姿を見せたり、ケッシャーダと言われる野生の豚が、夜農作物を荒らしに来ることもあった。今でも姿を見せている、ポンバ・ジャールと呼ばれる山鳩が何百羽とも知れない、まるで空が暗くなるほどの大群で押し寄せ、舞い下りて食べ物を探すのであった。そして、時期が来るとジャブチカーバ(木ブドウ)やピッタンガ(グミ)、ジャトバなどの果物がたくさん熟れて、僕らを喜ばせてくれた。
ある時、自分と友人と弟の三人で原始林散策にでかけた。夢中になって深入りし、とうとう出られなくなってしまった。ついに夜になってしまい、途方に暮れて三人寄り添って落ち葉の上でうつらうつらしていた。すると、遠くの方から自分たちの名前を呼ぶ声が聞こえてきた。「あっ、呼んでいる」、同時に三人は跳ね起きた。そして、あらん限りの声で叫んだ。やがてタイマツの明かりが見えてきた。村の人達であった。「おう、無事でいたか。おーい、三人とも無事だぞ」と後から来た人達が言うのであった。当時この辺はオンサ(豹)が徘徊していると言われていたのである。猟銃が空に向かって何発か撃たれた。別の場所へ探しに行っている父や村人への発見の知らせであった。「さあ、母ちゃんが心配してるぞ。肩につかまれや」自分たちそれぞれを背負い、家まで運んでくれた。
「輝かしき開拓者」(中央クマさん) 『輝かしき開拓者』で、僕はフーモ・デ・コルダを吸う役をやっている。開拓当時のタバコと言えば、このフーモ・デ・コルダであった。
父はタバコを吸わなかったが、家に来るいろいろな客人が話しながらフーモ・デ・コルダを吸うのであった。
ある人が、これは蚊除けなんですよ。貴方も吸ってみなさい。最初はチョットふらつくけど、すぐに慣れますよ」と父に勧めるのであった。
当時はマラリアが辛辣を極め、たくさんの人が死んでいった。自分の妹も、一人その時に亡くなったいる。その病原菌は、蚊が媒介すると言われていた。
勧められて父は、慣れない手つきでその人が言うとおりに、フーモ・デ・コルダを削り、両手で揉みほぐしてパーリャ(トウモロコシの皮)で巻いて火を付けてもらい、二、三度吸ったと思ったらたちまち咽せて、背中をさすってもらっていた。『輝かしき開拓者』の舞台でフーモ・デ・コルダを削り、揉みほぐす動作をしながら、あの時の父の手つきを思い浮かべて何となく微笑ましくなるのである。
初期の頃の公演出発風景/1943年型フォードで 『輝かしき開拓者』は初期の作品で、自分は当初から演じ続けてきた。自分はこの踊りが好きである。原始林の中で働く男たちと、それをバレエで表現するバレリーナたち。亡くなった先輩たちの霊がこのバレエを見たら、どんなにか慰められることだろう。先輩たちの霊よ安らかに、そんな思いをこめて、自分は今日までこのバレエに参加してきた。そして、出来ればこれからも続けていきたいと思う。

(フーモ・デ・コルダ=煙草の葉を縄状に巻き固めたもの。ナイフで削りもみほぐしトウモロコシの皮で巻いて吸う)

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