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よろこびの歌

小原明子

小原明子 「六十日の船旅を終えてブラジルのサントス港に着いた、彫刻家の夫、小原久雄と私は、ユバさんの力強い握手に迎えられました。」 一九六一年、ユバ農場に入植、以来二世、三世、四世と三世代に亘る子弟達を指導し続け、その生活にバレエすることを定着させ、ユバ・バレエ団を設立し、弓場勇の夢、新たな文化創造実現化の一翼を担ってきた。

 今から二十八年前、ブラジル日本移民七十周年を記念して、第一回ユバ・バレエ日本公演が行われた。ユバでバレエを始めて十七年が経っていたが、誰よりも日本で公演する日の来ることを願っていた弓場さんは、この日を待たず二年前に亡くなっていた。
ブラジリア公演(1971年大統領夫人招聘による。中央・小原明子)公演の一ヶ月前、私は主催者、日本側スタッフと打ち合わせをするため、日本へ出掛けていった。ブラジルに渡った私がバレエ団を連れて日本で公演をすることを知って、踊りの恩師、昔の仕事仲間が集まって日本で公演することについてアドバイスをしてくれた。上演プログラムはこの時点で既に決まっていたが、彼等と話しスタッフと打ち合わせを進めるうちに、バレエ団を連れてきていったい何をしようとしているのだろう。ブラジルの田舎で土を耕し、たくましく育った土の香りのするバレリーナ達の踊りを見せる。ただそれだけでいいのだろうか。弓場農場を創った弓場勇の思想、土と共に生き、祈り、芸術する生活、せめてこの三つだけは何とかして伝えたい。小原明子は、弓場で十七年間暮らして、何を見て何を感じてきたのだろう。それも伝えたい。ブラジル発信の、弓場発信のメッセージを伝えることが出来なければ日本での公演は何の意味もないのではないか。このままではいけない、何とかしなければ。今のままで皆を日本の舞台に立たせることは出来ないと考えるようになっていた。

 二週間の日本滞在を終え、ヤマに帰ってきたその夜、皆を前に
「私はに何大変申し訳ないことをしてしまうところでした。皆に謝らなければならないんです。フィナーレに演る、よろこびの歌を始めからやり直したい、日本へ行くまでに出来るかどうか分からないけれど、今のままではだめだと気がついた以上やらなければならないんです、やらせてください。」
と頭を下げた。

 その時突然立ち上がって
「皆、明日からアッコさんが左へ行けと言ったら左へ、走ってくれと言ったら走りたくなくても走るんだ。後一ヶ月だ。文句を言わずにアッコさんの言うとおりにしよう」
と言ったのは、いつもはあまり意見を言うことなく黙々と働いている今本武士ことタケちゃんだった。タケちゃんの言葉に勇気づけられ、必死の思いで「よろこびの歌」に取り組んでいった。

 それから十三年後、第一回日本公演の主催者である日本青年団協議会から第二回公演をとの依頼があった。願ってもない話に是非実現させたいと思いながらも、一ヶ月は留守にしなければならない日本公演を、果たしてやることが出来るのだろうか。

 その頃、ユバでは今までの養鶏に替わって、果物、ゴヤバが主生産物になっていた。果樹の手入れ、収穫、出荷と一日として手を抜くことは出来ない。自分の子供を育てるのと同じだ、とゴヤバを育てることに心血を注いでいたタケちゃんは、毎晩寝袋にくるまってゴヤバの木の下で夜を明かしていた。私は、タケちゃんに聞いてみた。
「日本公演の依頼が来ているのだけど、タケちゃんは行きますか?」
「俺は行くよ」と即答した。
「日本へ行くとなれば一ヶ月はヤマを留守にしなければならないけれど、日本から帰ってきたらゴヤバが駄目になっていたということになるかも知れないんですよ」
「大丈夫だよ、例え駄目になっていたとしてもゼロからまた始めればいいんだ。元々ゴヤバはヤマになかったんだから、いくらでもやり直しがきくが、日本公演は今しかできない。神様から与えられた大きなチャンスだと思う。それをやらなきゃ申し訳ないよ」
その一言で私は迷うことなく「日本公演をやらせていただきます」と主催者に返事を送った。そしてこの時、弓場勇の思想は弓場亡き後もヤマの中にしっかりと受け継がれていることを知り自分はまだ先輩達の足元に及ばないことを改めて知らされた。

四十五年目のよろこびの歌

 その日は私の誕生日だった。この日の夜、私はお洒落をして舞台に来るようにと呼ばれていた。写真でも撮るのだろうかと舞台に行ってみると、客席に特別席が用意され、マイクを持った勝重が幕前で語り始めた。
「ママ、お誕生日おめでとう。ママがヤマに始めて来てバレエを始めて四十五年経ちました・・・」
挨拶が終わり幕が上がった。上手にクマさんが、下手にはケイコが、階段の中央に斧を振るツネが、ギターを弾く正勝が、勇がいる。「よろこびの歌」が始まったのだ。次々に登場してくる山の仲間達。何てすてきな私の仲間達。この人達と一緒に生きてきて本当に良かった。私はヤマの人たちに生かされてきたんだ。この人達がいたからこそ数々の作品を作ることも出来たのだ。舞台を見るうちに感動で身体は震えだし、溢れてくる涙をどうすることも出来なかった。
二〇〇六年六月七日、私は生涯忘れることの出来ない素晴らしい誕生日を迎えた。そして、ユバ・バレエ団誕生から四十五年を経た今、「ありがとう」と心からの感謝をヤマの仲間に伝えたい。


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