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木村 快
二〇〇六年八月十一日に放映されたNHKスペシャル『満蒙開拓団はこうして送られた―眠っていた関東軍将校の資料―』の概要は次のようなものである。なお、文中の「満州」「匪賊」といった用語は現在では使われないが、資料をもとにしたものなので、当時の呼称をそのまま使用することをお断りしておく。
昭和八年から始まった満州移住は戦前、満蒙開拓(まんもうかいたく)と呼ばれていた。満州(中国東北部)だけでなく、現在のモンゴル自治区をも視野に入れた事業だったからである。移住の始まった昭和七年から二十年までに二七万人の日本人が満州へ移住している。
満州移住計画の中心人物であった東宮鐵夫の生家(群馬県前橋市)で満蒙開拓計画にかかわる詳細な資料が多数発見された。この資料は終戦当時、軍から焼却を命じられたが、遺族はそのまま蔵の中にしまい込んでいたという。
東宮鐵夫(とうみや・かねお 一八九二〜一九三七)は昭和三年六月四日、関東軍による張作霖(ちょう・さくりん)爆殺事件の実行者として知られている。
関東軍とは日露戦争後、日本がロシアから引き継いだ中国の遼東半島と南満州鉄道沿線を防衛するために置かれた行政権を持った軍隊である。関東軍は早くから中国東北部の満州と呼ばれる地域の領有を計画しており、満州最大の軍閥である張作霖の殺害を計画していた。政府は国際関係を考慮し、強硬な手段をとることには反対であったが、関東軍の高級参謀河本大作大佐の独断でひそかに計画され、東宮大尉によって実行された。事件の重大さから、報道管制が敷かれ、この事件は「満州某重大事件」と呼ばれていた。
時の田中義一首相はこの事件に軍がかかわっていたことをいったんは天皇に上奏するが、陸軍内部の圧力によって前言をひるがえしたため、天皇の叱責を受け、昭和四年七月に内閣総辞職している。しかし、実行責任者である関東軍高級参謀の河本大作は停職、実行者の東宮鐵夫は内地への転属を命じられただけで終わっている。
東宮は大正九年のシベリヤ出兵(NHKではシベリア出征と言っている)に日本軍の歩兵将校として参加している。この時、ソビエト側の精鋭であるコサック兵が、シベリアで農業を営みながら国境を守備する武装農民であることを知り、日本側でもコサックのような武装農民を育成できないものかと考え始める。
大正十一年、東宮は自費で中国に留学し、中国語を学び、中国事情を研究している。
昭和六年、岡山歩兵連隊に所属していた東宮は満州移民計画を軍上層部に提出した。満州移住については日露戦争以後、兵役除隊者によって繰り返し試みられていたが、ことごとく失敗していた。東宮は日本人には満州のような極寒の地における農業は無理だと考えていた。そこで、寒冷地農業の経験のある朝鮮人を移住させ、それを日本の在郷軍人に統率させる計画を作成した。その結果、東宮は再び関東軍への転属となり、満州の吉林省へ派遣される。
昭和七年三月、日本は国際的な批判を無視して傀儡国家満州帝国の建国を強行する。以後、日本は孤立への道を歩くことになる。この年はさらに、五・一五事件、犬養首相の暗殺が起こり、政党政治は終焉を告げる。
代わって海軍大将斉藤實(さいとう・まこと)を首班とする内閣が成立すると、拓務省は一気に満州移民の推進をはかる。拓務省は東大出の農本主義者として知られていた加藤完治を招聘し、本格的な満州移民の計画に取りかかる。
加藤完治(かとう・かんじ 一八八四〜一九六七)は茨城県友部に農村指導者の育成をはかる日本国民高等学校を創設し、卒業生達を朝鮮や満州へ送り込んでいた。以後、加藤完治は東宮と二人三脚で満州移住計画の推進にとりかかる。
昭和七年六月、関東軍指令部に東宮の「吉林頓墾軍機関隊編成具申書」が提出される。これは「現在駐屯している日本軍に代わり永続的に防衛の任務を担う」武装移民団の育成を目的としたものであり、この移民団を頓墾(とんこん)軍と名付けている。その編成は将校七人、准士官一〇人、下士官三〇人、隊員は朝鮮人を含む三〇〇人で一大隊を構成するというものである。常備する武器は小銃八八丁、騎兵銃三三丁、拳銃一七七丁。その他弾薬類一〇〇キロとなっている。
拓務省から入植地選定の依頼を受けた加藤完治は即刻奉天(現在の瀋陽市)へ向かい、移民団編成について東宮と会談。東宮の朝鮮人を主力とする移民団編成に対して、加藤はあくまでも内地の農民を重視すべきだと主張する。
入植地帯には三万人の匪賊が存在しており、開拓団は治安を維持する能力が必要だとする東宮の意見に対して、加藤は一集団五〇〇人で一〇カ所に入植させてはどうかと提案。日本軍で訓練された武装農民五千人なら、三万の匪賊に対抗できるということで両者は合意する。これが満州移民国策の始まりであった。
こうして昭和八年、兵役を終えた在郷軍人から第一次試験移民を募っている。第一次移民団四九三人はソビエトとの国境に近い吉林省佳木斯(ジャムス)近辺の永豊鎮に入植する。
予定地には二〇〇〇ヘクタールの民有地があり、その半分はすでに耕作地であった。満鉄の子会社東亜勧業株式会社は中国人居住者を一人あたり五円(現在の価格で二万円程度)で強制的に立ち退かせている。この強引な土地の獲得は中国農民の憤激を買い、強い反日機運を生み出した。
昭和八年四月、本格的な入植が開始され、開拓地は弥栄(いやさか)村と名付けられた。しかし、重労働と極度の緊張感で大腸カタル、アメーバ赤痢、風土病などに冒され、五〇〇人中三〇〇名が病気を抱え、屯墾病と呼ばれていた。
昭和八年七月、移民団の中で幹部排斥運動が起こる。拓務省宛の決議文には「屯墾隊員は屯墾軍第一大隊幹部の総辞職勧告を決議する」とある。入植わずか三ヶ月にして移民団は崩壊の危機に直面していた。東宮、加藤が収拾に乗り出し、なんとか幹部排斥だけは防ぎ止めたものの、事態はますます深刻化する。
東亜勧業の極秘報告書によれば隊員たちの風紀は乱れ、「現地住民の鳥豚の強奪、無銭飲食、暴行、強姦などが発生している。匪賊よりも恐ろし」と記されている。
ドキュメンタリーの中で永田稠がかかわった部分をそのまま記述してみる。
ナレーション 第一移民団に次々と発生する問題に対して、関東軍内部で入植方法再検討を求める声が上がりはじめました。
関東軍が撮影した貴重なフィルムが残されています。関東軍移民部が昭和八年十一月に移民団を視察したときの映像です。
移民部は関東軍の中で移民を管理統括する部署です。視察団はハルビンの空港から空路ジャムスの町に入りました。入植してから半年後、幹部排斥運動がようやく収まった頃の映像です。この時すでに一二〇人の団員が、病気や精神的ストレスで脱落し、村を去っていました。灌漑用のポンプなど機材は古く、その数も足りませんでした。この年開墾した畑からの収穫はほとんどなく、中国人の耕作地が頼りでした。
この視察団に日本人の海外移住を支援する民間の組織の代表である永田稠(ながた・しげし 一八八一〜一九七一)も参加していました。永田は以前から北米や南米などへ現地視察に向かい、土地の調査や測量を行い、移民に適した土地の選定を行っていました。その経験を見込まれ、移民部の嘱託として関東軍に招かれました。
【映像】永田の報告書原稿。
ナレーション 永田がまとめた一八項目八〇頁にわたる報告書です。移民計画のずさんさを厳しく指摘し、早急に計画を改善すべきだと進言しました。
永田 土地の測量、土地の所得、移住者の宿伯所、衛生施設などを準備せずに、一気に五百名の全移住者を入植させる暴挙は、世界各国の移住計画にその例を見ない。
満州人約九十戸を強制的に退去させた。彼らは家を失い、耕地を離れ、直ちに生活の脅威を受けることは当然。移住者が常に匪賊より脅威を受けた遠因の一つになっている。
ナレーション 移民計画立案者の一人である東宮鐵夫は永田の主張に強く反論しました。
東宮 匪賊を討伐しながら移住しなくてはならない状況では、土地を測量し、諸設備を完全にした上で入植することは絶対に不可能。
南米移民と満州移民とは全然別個の国策である。いろいろ事情があるにもかかわらず、すべて南米移民をもとに批判している。
【映像】―タイプ印刷された東宮の永田批判書。
ナレーション これは永田自身が保存していた東宮の文書です。永田は欄外に細かく反論を書き加えています。
永田 日本の権威者を集めて、あのていたらくは何事だ。農耕もできず、自己防衛もできず、これを二兎を追う者一兎をも得ずと言うのだ。
東宮 当初の頃よりは警備の時間は少なくなっている。警備と農耕とは時間的に区別し、両立している。
ナレーション 激論はさらに現地中国人との関係がどうあるべきかに及びます。
東宮 満州人と日本人移民との間で、支配する側とされる側の関係ができるのは当然だ。そのようなことは文字にする必要もない。満州人は人道王道をもたらす大和民族の大陸進出を妨害する国賊だ。
永田 日本民族は先住者を排除しなければ、移住地の建設はできないのか。王道とは世界の人類をみな日本人とすることなのか。
東宮 帝国百年の移民国策の立案に当たり、新日本建設前衛の移民地に文句をつける輩は国賊と言うべきだ。
永田 最も忠実な支援をしようと苦言を呈する者を文句をつける輩と見る目は、それ自体において盲目だ。
ナレーション この論争を最後に、永田は関東軍移民部から去っていきました。
東宮が起案した満州開拓団計画は、実行から一年で大きな課題を抱え、危機に直面していました。しかし移住者の置かれている困難な現実を軍や政府はひた隠しにし、移民団をたたえる情報だけが、流布されていきました。試験移民計画はさらに第二次第三次と推進されていったのです。
以上が関東軍移民部のフィルムとナレーションによる永豊鎮屯墾地区視察の部分である。
この後、一九三五(昭和十)年四月には満州国皇帝溥儀(日本読みでフ・ギ)が日本を訪問し、天皇と会談して満州ブームをかきたてる。この時期、東宮は拓務省、加藤完治らと協議し、新たな移民計画を具申している。その内容は、単身者だけでなく、三年間に三万家族、十万人を送るといったものである。この具申書が大量の満州移民につながることになる。
一九三六年、関東軍は満州国人口の一割を日本人にする計画を立てていた。この年の二月、二・二六事件が起こり、以後、軍部の支配は決定的となる。そして三月に広田内閣が成立すると、七大国策の一つとして二〇年間で一〇〇万戸、五〇〇万人の移住計画が打ち出された。
昭和十二年には日中戦争が始まる。東宮はその年の十月、千葉部隊大隊長に転任し、中国戦線への出動命令を受ける。そして一ヶ月後、上海の戦闘で戦死している。満州移民の父として、葬儀は盛大に営まれ、関東軍参謀長・東条英機、満州国産業部次長・岸信介(戦後の総理大臣)、満州炭坑株式会社理事長・河本大作(張作霖爆殺事件首謀者)、七三一部隊長・石井四郎(細菌・化学戦研究のため中国人捕虜に対して生体実験などを行った部隊)などが花輪を贈っている。
東宮の死後、満州移民は国を挙げての大事業に発展する。昭和十三年からは十四歳〜十九歳までの少年達が満蒙開拓青少年義勇軍として送られていく。こうして満州に送り出された移民は昭和二〇年までに二十七万人に達した。
しかしソビエト軍の侵攻に伴い、移住民は戦闘に巻き込まれる。関東軍は満州南部に撤退し、移住民は見捨てられ、八万人は日本へ帰ることができなかった。
以上が『満蒙開拓団はこうして送られた』の概要である。
永田の視察報告書の中で特に重要な点は、先住民との融和を無視した移民は反日感情を引き起こすこと、特に移民を警備に当たらせることに反対している。また、生産物の流通、移住民の経済的自立を軽視することは移住民を苦況に追い込むということを指摘している。これは永田自らの体験による忠告であった。
番組では紹介されなかったが、この時期永田はすでに十年間におよぶブラジル・アリアンサ移住地経営で苦闘しており、特にこの時期は国策会社・ブラジル拓植組合への移住地の併合にも抵抗していた。永田としても移住事業に携わる以上国の政策を無視することはできなかったが、移住の問題はあくまで移住者の立場から検討されるべきだということが大前提であった。
昭和六年の満州事変に始まり、昭和七年三月の満州国建国、同五月の犬養首相暗殺、軍人内閣の誕生、そして昭和八年二月、満州国の承認が得られなかったため日本は国際連盟を脱退。もう引き返すことの出来ない道を歩き始めていた。「屯墾移住地視察報告」はこのような時期に軍関係者を相手に提起されたものである。
東宮から国賊呼ばわりされた永田は昭和九年、新京(当時の満州国首都・現在の長春市)郊外に農業指導者育成を目的とした満州力行農園を開設する。そして昭和十二年、自由移民を対象に中国人との共生を理念とした新京力行村を開設するが、時代はすでに日中戦争下にあり、国策移住宣伝の声にかき消され、頼みとする長野県下からさえ移住希望者は全く集まらなかった。永田は大きな痛手を受けるが、開村を一カ年延ばし、昭和十三年、熊本県八代の農業教育団体日本農友会会長松田喜一の協力を得て三〇戸の移住者を集め、開村に踏み切る。
新京力行村はアリアンサ移住地と同様、全村民が組合員となり、産業組合による運営方式をとった。戦前においては画期的なことである。力行村は中国農民との交流を重視し、積極的に優良種子の分配、栽培法の指導、市場協力などを行い、経済的にも大きな成果を上げた。昭和十九年に熊本県昭和村が高潮被害を受けた際には各戸が一万円ずつ拠出し、計二六万円という破格の救援資金を送っている。
敗戦時はソビエト軍の侵攻によって二七万の満州移民は悲劇的な事態に追い込まれるが、新京力行村居住者は中国人の全面的協力で全員無事に帰国している。
近年、永田を長野県における国策満州移民の積極的推進者であったとする文献が出回ったが、事実に基づいたものとは思われない。永田は信濃海外協会幹事という立場上、長野県の移住運動と無縁ではあり得なかったが、昭和十三年から始まる満蒙開拓青少年義勇軍に対しても強い批判を持っていた。そして信濃海外協会は昭和十九年二月に解散に追い込まれている。戦後、永田は『信濃海外移住史』(一九五二年刊・318頁)に、「日本移民、特に長野県移民の最大の失敗は満州移住にある。‥‥その創立の時代から移住の体験を有する者が用いられず、少数の体験者はかえって排斥され、盲目者によって案内された」と書いている。
「屯墾移住地視察報告」は国策によって無視されたが、日本の移民政策への貴重な提言であった。しかし、戦後移住においても満州移住の教訓は生かされなかったようだ。
一九五〇年代に一八ヘクタールの肥沃な土地を無償譲渡すると言って二四九家族をドミニカ共和国の塩害の地に送り込んだ事件がある。数十年にわたって移住民による政府への抗議・陳情が続けられたが、外務省は非を認めず、半世紀近くもたった二〇〇〇年についに訴訟が起こされた。しかし六年後の今年、東京地裁は政府の責任を認めながらも、賠償については二十年間の除斥期間を過ぎており「賠償請求権が消滅した」として原告側の請求を棄却した。置き去りにされた移住者側の敗訴である。満州移住の教訓が生かされていたなら、もともとこうした悲劇は起こり得なかったはずである。