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ブラジル移民百年とは何だったのか

   現在も生き残る少数派移住地・アリアンサ

州道300号線の“イサム・ユバ”インターチェンジ(1997年 木村快撮影)  現在日系人は百五十万人と言われていますが、その大部分は大都市に集中し、もはやかっての日本人移住地は姿を消してしまいました。日系人はほぼ完全にブラジル社会にとけ込んだと考えていいでしょう。ただ、残念なことは日系人のアイデンティティとしての日本人移民史は資料が散逸し、送り出した日本側でも移住史を扱わないため、正確に復元できないことです。未来志向の国に過去の歴史は不要ということなのでしょう。
 日本政府は一九一八年に国策会社として海外興業株式会社という独占的な移民会社を設立し、片道渡航費を支給して多くの移民を送り込みました。さらに一九二七年(昭和二)には海外移住組合法という法律を制定し、サンパウロ州を中心に巨大な日本人移住地を次々と造成し、日本人の生活圏を拡大させました。世界最大の日系人社会が誕生した背景にはこうした政府の移民政策があったからです。しかし、今では日本の歴史事典や百科事典を開いても、移住史に関連した項目を見つけることは出来ません。
 ブラジル連邦共和国は多文化共生を掲げる国です。一九世紀以来、サンパウロ州のコーヒー産業の発展によってイタリア人、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人、日本人が大量に移住したため、現在では先住民族も含めてそれぞれの文化が共生することをブラジル文化と呼んでいます。しかし、共生社会の一角を支えるはずの日本文化は、日本人移住地の消滅とともに消え失せようとしています。
 現在、日本人移住地のおもむきを残しているのはアリアンサだけだと言われています。アリアンサは大正十三年に国の移民政策に批判を持つ人々が民間の運動によって建設した移住地です。日本人集団地を日本の植民地と考える当時の風潮に対して、ブラジル人社会との共生をうたったアリアンサ(協力・共生を表すブラジル語)という名称をつけ、植民地とは呼ばず「移住地」という用語をはじめて使った多文化共生の先駆的存在です。けれど移民社会主流派からの風当たりは厳しく、移住史に記録されることもない少数派的存在でした。
 この移住地は住民による自治運営が基本でしたが、一九三四(昭和九)年に国策会社に併合されて幕を閉じました。しかし、住民の間では今でも創設時の理念が大事に守られている移住地です。
 また、現在完全な日本語環境が残っているのはアリアンサのコムニダーデ・ユバだけだと言われています。この農場はアリアンサの伝統を守り、日本文化を継承するため、戦後も一貫して日本語を日常生活語とし、日本的コミュニティを継続しています。

(写真) サンパウロ市から北西に向かう自動車幹線道路マレシャル・ロンドン(州道300号線)を600キロ走ると、イサム・ユバというインターチェンジがあります。ここがアリアンサ移住地の入り口です。インターチェンジの名称はサンパウロ州政府がコムニダーデ・ユバ(ユバ協同農場)の創設者弓場勇を記念して命名したものです。こうした公的名称に日本人の名前が使われることは大変珍しいことです。(1997年 木村快撮影)

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