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アリアンサ運動の歴史

第一部 アリアンサへの道

木村 快

 一、永田稠の移住思想

  明治の日本人として

永田 稠(ながた・しげし)「日本力行会百年の軌跡」より  永田稠は明治育ちであり、日露戦争の従軍経験者である。現代人の価値観からすると、永田の書き残した文章には時に違和感を感じる部分もある。だが、人は時代を越えて生きることは出来ない。現代のわれわれに必要なことは、日本の近代を切り開いた人物の一人として、永田稠が明治から昭和にかけてどのように生き、何を語ろうとしていたのかを知ることである。どう評価するかはそれからでも遅くはない。
 永田稠は明治十四(一八八一)年十二月、長野県諏訪郡豊平村下古田(しもふった、現在の茅野市)で生まれている。父は村長をしていた明治五、六年頃、八ヶ岳山麓が国有林に編入されたことに抗議、政府と裁判で争って敗れ、松本刑務所に収監された経歴を持つ。このため多大の負債を抱えることになり、永田は極貧の暮らしの中で成長している。母は永田が十一歳のとき病没している。
 諏訪実科中学(現・諏訪清涼高校)卒業後四ヶ月ばかり玉川村小学校で代用教員を勤めているが、そのときの校長は後のアララギ派歌人島木赤彦であった。その影響で、永田は移住運動において直面した多くの出来事を、その都度短歌で書き残している。
 その後東京専門学校(現早稲田大学)予科の政治科に進学するが、学費が続かず中退。帰郷後再び代用教員となる。
 二十歳の徴兵検査では一年志願兵を志望し、北海道の第七師団歩兵第二七連隊に入隊している。明治三十六年から一年間、北海道の原野で訓練を受け、いったん除隊するが、翌三十七年の勤務演習中に日露戦争がはじまり、三十八年二月、陸軍少尉として第七師団衛生隊を率いて満州戦線に参戦。乃木希典将軍の第三軍指揮下に入る。
 日露戦争は明治三十八年九月に終結するが、永田は終戦処理のため翌年三月まで半年間、奉天近郊の村に駐留している。戦争が終わっても故郷に帰れない兵士たちはささいなことで農民に乱暴したり、農民の鶏を盗んだり、様々な問題を引き起こす。その度に永田は責任者として農民に謝罪し、対価を支払わなければならなかった。しかし、逆に村民は永田を信頼するようになり、村が抱える問題についても永田に相談するようになったという。この経験が、昭和八年、東宮鐵男の満蒙開拓武装移民政策を痛烈に批判した『屯墾移住地視察報告』の根拠となり、関東軍移民部から追放されながら、昭和十二年、独力で中国人との共生を掲げた新京力行村を建設する原点となった。敗戦後、新京力行村の村民は中国人の保護下で全員無事に帰国している。

  北海道移住

 永田は北海道の第七師団で訓練を受けたことによって、北海道農業に関心を持つようになった。日本人が住み慣れた故郷をあとにして、全く風土の異なる土地へ移住しはじめたのは、明治維新後の北海道開拓である。政府は維新で失業した武士への対策として、北方警備を兼ねて北海道開拓に従事する家族連れの兵士を募集する。屯田兵(とんでんへい)制度である。一地域二百戸単位で中隊を形成し、原野を開拓し、村を開いた。これを屯田村という。屯田兵制度は日露戦争の始まった明治三十七年に廃止されるが、この屯田兵が陸軍第七師団となったのである。このため、上官や部下には屯田兵出身者が多く、北海道開拓の現状について知る機会は多かったと思われる。
 明治三十九年、永田は除隊後一旦郷里に戻るが、北海道移住を決意し、まずその実習のため札幌農事試験場の日雇いとなって働いた。様々な技術的な質問をする永田に、試験場の技師は「もし英語が読めるなら」と『プリンシプル・オブ・アグリカルチャ(農業の原理)』という本を貸してくれた。当時はまだ日本語の農業技術書はあまりなく、試験場に常備された書籍はたいてい洋書だった。元々英語は好きであったが四年近くの軍隊生活ですっかり読解力は低下し、最初の二十ページを読むのに一ヶ月かかったという。しかし技術書は一定の単語述語を覚えると比較的簡単に読める。それからは片っぱしから試験場の洋書を読みあさった。アメリカの書籍を読むことによってアメリカ文化への関心も深まってきた。
 移住のめどもつき、永田は郷里の兄一家とともに札幌郊外の山鼻村へ移住する。だが、実際に入植してみると土地が痩せており、開拓は思うように進まなかった。ついに四十一年暮れに生活は行き詰まり、やむなく兄一家を友人の働く興(おき)農場に託し、永田は単身アメリカ行きを決意する。この山鼻村開拓失敗の苦い体験は、永田のライフワークとなる移住問題の第一関門であった。
 渡米に必要な資金は永田を見込んだ農事試験場長黒沢信二が事情を知り、四百円貸してくれた。黒沢は函館近郊の実験農場を永田に任せたいと考えていたが、黒沢自身が中国へ転勤することになり、永田のアメリカ行きを応援したのだった。だが、この頃からアメリカでは日本移民排斥運動が激しくなり、日米両政府は日本移民自粛を約束する日米紳士協約を結び、旅券申請の保証人には一定の社会的地位が必要だった。これは兄一家を託した興農場主の小川二郎が引き受けてくれた。

  日本力行会へ

 当時、アメリカへ渡るには移民会社の募集する出稼ぎ移民になるのが一般的だったが、それ以外には留学を望む青年たちのための海外学校を開いている日本力行会が唯一の窓口であった。日本力行会は明治三十年にキリスト教ドイツ・リフォームド(再洗礼)派の牧師島貫兵太夫が苦学生救済のために設立した東京労働会が始まりである。永田は早速日本力行会への入会を申し込む。
 明治四十一年十二月、日本力行会から入会許可の通知が届き、永田は神田駕籠町にあった日本力行会に入会する。当時の力行会は一クラス四十人前後で、午前は賛美歌、聖書の輪読。午後は英会話、アメリカ文化の講義、欧米流の礼儀作法を教えられた。宿舎は一部屋二、三人で住み、食事は自炊が原則だった。ただし、昼食だけは渡米後の食生活になじめるようアメリカ料理の講習と給食、食事の作法を学ぶことになっていた。
 永田はすでに二十六才。年長でもあったし、日露戦争で小隊長として現場指揮官の経験もある異色の存在であった。ここでも同期生の相談相手となり、リーダーとしての資質が磨かれていったようだ。会長の島貫は永田の能力を高く評価し、原稿の口述筆記をさせたり、雑誌発行の手伝いをさせている。こうした経験は後年多くの著作を執筆する基礎となった。
 旅券は申請後百日余で交付された。日付は明確でないが、おそらく明治四十二年三月か四月、永田稠は渡米グループの責任者として横浜を出発する。このとき大隈重信が力行会を訪れ、渡米会員たちを激励している。

  渡米後の永田稠

「救世」明治43年5月号掲載 永田はサンフランシスコの堂本花園に就職する。堂本花園は明治十八年に和歌山県から移民した堂本兄弟の経営する園芸植物を専門に扱う店で、多くの使用人が働いていた。永田は札幌農事試験場時代に学んだ園芸の知識が役立ち、主人の助手的な仕事を与えられる。そのうち園芸植物業者として自立することを考えていたようである。永田はここで二年間働き、黒沢から借りた金を完済している。
 借金の返済を終えた永田は堂本花園を辞め、在米力行会員が設立したリフォームド教会の資金を集めるため、仲間を集めてデイワーク(日雇い仕事)や鉄道施設工事で働いたりしている。

  移住農民の調査

 そうした時期、永田に一つに転機が訪れる。明治四十五(一九一二)年一月、永田のもとに一人の老人が訪ねてきた。野田音三郎である。野田はサンフランシスコ・リビングストンの日本人移住農園・大和村の建設に携わり、日本移民を農業従事者に導入するために力を尽くした人物であった。野田は日本移民への風当たりが強くなるアメリカで、日本人が自立するには農業面に定着することが重要だと考え、農業的自立を訴える「北米農報」という雑誌を発行していた。しかし、経営に行き詰まり、廃刊せざるを得ない状況に追い詰められていた。野田の用件は日本移民救済のために「北米農報」の発行を引き受けて貰えないかという相談だった。永田は清貧に甘んじながらひたすら在留邦人のために献身する野田のために力になりたいと思う。
 だが、経営を引き受けてみると事務所はなく、資産もなく、託されたのは農報の古い綴りと古い名簿だけだった。永田はとりあえず日本総領事の談話を取り、これを軸にした五〇ページばかりの小冊子を作った。これを持ってカリフォルニア全域に散在する旧読者を訪ね歩き、併せて日本人農民の現状調査に全力を挙げた。当時、カリフォルニア州議会では外国人の土地所有および三年以上の賃借を禁止する「外国人土地法」が準備されつつあった。永田は各地の農家に、自衛のための日本人農会の組織化を訴えて歩く。永田の言う農会とは、当時世界的に普及しつつあった産業組合を意味している。

  産業組合運動

 産業組合とは産業革命のイギリスで無権利状態の労働者たちが様々な生活防衛の手段として考え出した組合組織である。一八四四年、イギリス・ランカシャー地方のロッチ・デールで、ストライキに敗れた労働者が資金を出し合って生活物資を共同購入し、利益を分配し合ったロッチ・デール先駆者組合から始まったとされている。相互扶助、弱者支援を理念とし、出資金の多少にかかわらず一人一票を原則とする民主的運営に特徴がある。
 この考え方はやがてロッチ・デール原則と呼ばれ、住まいの問題を解決するための不動産事業や、資金を融通しあう信用組合にまで発展する。そして弱者の国際連帯運動として世界的に広がっていった。日本でもこうした運動を背景に、明治三十三(一九〇〇)年に消費者組合、信用組合などを内容とする産業組合法が施行されている。戦後の生活協同組合、農業協同組合、信用協同組合、医療生活協同組合などの非営利組織もそれを引き継いだものである。
 永田は移民の実情を調査することによって、移民の経済的自立だけでなく、日本移民排斥運動に直面する日本農民の精神的孤立を防ぐためにも農会の組織が必要だと確信するようになる。
 大正二(一九一三)年五月、永田はカリフォルニア州各地の同志を糾合、サンフランシスコで北米日本人中央農会を発足させるところまでこぎ着けた。北米農報を引き受けてから二年たっていた。母国からの保護を受けられない移民たちが自らの力で結束し、異民族との共生を図らなければならない。永田の移住思想はこの農会組織運動の実践によって確立されたと言っていい。

  転機

 いよいよこれからと意気込んでいたところで永田の前にまたもや大きな問題が立ちふさがった。力行会島貫会長からの思いがけない知らせである。島貫は長年肺疾患と戦いながら力行会の経営にあたっていたが、「今度という今度こそだめだと思う。ついては汝ら二人(永田稠と妻くら子)に力行会会長を命ずる」とあった。そしてまもなく島貫は静養先の鎌倉で亡くなった。
 永田は迷う。力行会には神学校出の立派な適任者が幾人もあり、必ずしも自分が適任だとは思えない。永田は島貫の友人であり日本救世軍の創始者である山室軍平に相談の手紙を出している。山室からは「君が帰国するのが力行会にとって最善である。仕事はもとより困難である。困難な先輩の偉業を継承大成することは男子の本懐ではないか。お互いに協力するから帰ってこい」との返信が届く。つづいて先に帰国した力行会員星野米蔵からも力行会の経営が危機に瀕しており、至急帰国せよとの知らせが来る。永田は中央農会の仕事を同僚の兼子常四郎に託し、帰国の決意をする。

  移民教育の重要さを痛感

 大正三(一九一四)年十二月上旬、永田は幼い長女忍と再び身重となった妻くら子とを連れ、帰国の途についた。島貫会長没後すでに一年三ヶ月が経過していた。めまぐるしい在米期間は二十六歳から三十三歳までの六年八ヶ月であった。
 アメリカを去るに当たって、永田は改めて、日本政府に移民政策が欠如していることを痛感する。貿易政策には熱心でも、不当な排日運動が激化する状況にありながら在留民保護については全く放置状態である。在留民もただただ不安におののくだけで、対応のすべを知らなかった。日本人自身がもっと世界に目を開くべきであり、帰国後はそのために努力しなければならぬと考える。

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