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アリアンサ運動の歴史第二部
  共生の大地を支えた青年たち

木村 快

 二、福祉活動から生まれた日本力行会

島貫兵太夫  日本力行会の実態を知るには、多少その歴史に触れる必要がある。日本力行会は一八九七(明治三〇)年、キリスト教リフォームド派東京神田教会の牧師、島貫兵太夫(しまぬき ひょうだゆう)が苦学生救済のために設立した東京労働会から始まり、一九〇〇(明治三三)年に日本力行会と改称している。力行とは中国の言葉、苦労しながら学問をする「苦学力行」から取ったとある。
 明治大正期のキリスト教は日本近代の思想文化に大きな影響を与えている。教育界における新島襄、新渡戸稲造をはじめ、社会主義運動の先駆として知られる安部磯雄や片山潜、大正デモクラシーの思想家吉野作造、生活協同組合、農民組合を起こした賀川豊彦や杉山元治郎、労働運動の草分けである日本労働総同盟も東京のユニテリアン教会ではじまった鈴木文治の友愛会から発展したものである。『プロテスタント人物史=近代文化形成』(キリスト教文化学会刊・一九九〇年)によると、キリスト教文化学会ではキリスト教徒として日本近代の思想、教育、文学、言論、社会改良、女性向上、国際交流、文化後援の八部門に影響を与えた代表的人物を挙げているが、社会改良の部では山室軍平と賀川豊彦を挙げ、国際交流の面では新渡戸稲造と島貫兵太夫を挙げている。
 島貫の人物と思想を簡単に紹介すると、自らの事業を「霊肉救済事業」と呼び、つまり心の救済だけでなく、人々の実際の生活を支援しなければならぬとする信念を基調としている。
 島貫は日本救世軍の創始者、山室軍平ととともに、大変行動的な牧師であったと言われる。救世軍とはイギリスから始まったキリスト教の貧者救済活動で、街頭に大きな鉄鍋をぶら下げ、軍服姿で音楽を演奏しながら通行人に救済募金を呼びかける。島貫は東北神学校(現・東北学院)時代から救世軍活動に関心を持ち、東京に出て牧師になってからも、宗教者としての社会的活動を模索していたようだ。あるとき、島貫は靖国通りで山室軍平の救世軍活動を目撃し、その場で活動を手伝ったことから苦学生救済活動を模索しはじめたと言う。
 島貫は貧しい学生のために自宅を開放し、「東京労働会」の表札を掲げる。次第に若者が集まるようになると小さな寄宿舎を建て、企業経営者に働きかけてアルバイトを斡旋し、病院に働きかけて無償治療を実現する。また青年たちが自分で学資を稼げるよう、日本茶、石けんを仕入れて行商させる。後の学徒援護会の先駆けとなるような活動を展開している。
 初期には資金集めのために各地で慈善音楽会を開いている。明治三六年に上野音楽学校(現・芸術大学)で開催されたプログラムを見ると、苦学生救済と無月謝中学校の設立などを訴えている。貧しくとも向学心のある若者を育てる学校をつくりたかったようである。発起人には島田三郎、押川方義、徳富猪一郎、幸徳秋水、など著名人四四名が名を連ね、賛成者として大隈重信、渋沢栄一らの名前が並んでいる。
 だが、こうした活動に対して教会内部から排斥運動が起こる。島貫は教会を辞し、独自に力行教会を設立する。そしてこれを機に力行会を会員制とし、会費による運営に切り替える。ただし無月謝中学校は実現できなかった。

  移住地でのネットワーク

 島貫にとって苦学力行とは若者の自立を意味していた。力行会紹介のパンフレットには「独立自尊の念なき者は来るべからず」と書いている。明治三〇年代の日本では、まだ士族中心の気風が強く、農民出身者にとってはさまざまなハードルがあった。そこで島貫が目をつけたのは若者を渡米させることだった。
 当時のアメリカ、カナダは労働力が不足していたから学資も稼ぎやすく、働きながら学ぶ制度も確立していた。島貫は一八九八年に実情調査のために渡米し、各地で牧師として日本の実情を訴え、若者自立の道を模索している。アメリカの中流家庭では勉学中の若者を家事手伝いに雇い入れる習慣があり、これをスクール・ボーイと呼んでいた。島貫はこれを日本側から組織的に送り出すネットワークを考え出した。
 日本力行会に渡米部が設けられ、渡米志望者には異文化圏での生活に最低必要な英会話、マナーを教育し、渡米後は支部に参加し、生活の互助と情報の共有をすすめた。また一般人には困難だった旅券の取得も代行手続きが確立された。こうして、移民会社とは全く別な渡米組織が誕生した。
 渡米会員は毎月その所在と生活の状況、移住地の現状などを本部に報告する。それらの情報をもとに書かれた島貫の「渡米案内」(明治三五年刊)「実地渡米」(明治三八年刊)は広く国民の間で読まれた。
 会員数は明治四十一年二月の統計によると、すでに四、七六〇名に達しており、このうち渡米会員は二、六二五名となっている(『日本力行会の航跡』三八頁)。支部はバンクーバー、シアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨークに生まれている。明治四〇年(一九〇七年)の日米紳士協約によってアメリカ渡航はむつかしくなるが、メキシコ、中南米に渡航する会員が増えている。これらの会員からの情報によって、日本力行会はもっとも海外事情に通じた組織として注目を浴びるようになる。
 力行会員の強みは能力のあるなしにこだわらず、関わった者同士が助け合い、人格的に向上する理念を共有する点にあった。この点では競争社会の中で孤立する一般の労働移民と違って、アメリカ人社会からも好感を持って迎えられた。

海外からの通信でみた在米会員の所在

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