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アリアンサ運動の歴史第二部
  共生の大地を支えた青年たち

木村 快

 四、新世界の建設に向かって

 アリアンサの建設は第一アリアンサの建設が一九二四(大正十三)年十月から開始され、次いで第二アリアンサが一九二六年八月から、第三アンサが同年十二月からとつづき、その総面積は一八、八八四ヘクタールに達する。これは東京二三区(六一、七〇一ヘクタール)の三〇%に該当する。この広さの大原始林を力行会はいったいどのようにして開発したのか。
 永田稠、輪湖俊午郎が奔走し、一九二二年一月に信濃海外協会を発足させた時点では初代総裁岡田県知事は移住地建設には全く興味を示さなかったので、地元長野では熊本、広島、和歌山、防長(山口)、香川、岡山につづいて長野にも同様の移住情報を提供する事務所が出来た程度の認識しかなかった。
 しかし、力行会内部では独自に移住地建設計画を進めていた。永田稠は国内世論を高めるため、信濃海外協会機関誌『海の外』と『力行世界』の二本立てで一般国民向けの移住情報の提供を始める。そして来たる日に備え、海外学校でもブラジル移住教育に力を入れていた。
 信濃海外協会が正式にブラジル移住地の建設を宣言したのは一九二三年五月である。永田稠が土地購入のために渡伯したのが翌一九二四年六月、土地の購入が十月、開発にかかったのは協会設立から二年十ヶ月後、宣言からは一年半後の一九二四年十一月である。
 この間『力行世界』『海の外』で進捗状況を報道しながら、一九二三年には他の海外協会に呼びかけ海外協会の連合体「海外協会中央会」を組織、会長に貴族院議員今井五介、副会長に衆議院議員津崎直武を迎え、移住地問題を国政レベルの問題に押し上げている。

  力行会員の結集

 問題は実際の開発であった。開発地はノロエステ鉄道ルッサンビーラ駅から南方に四五キロ入った地点にある。ノロエステ鉄道はブラジル政府がパラグアイとの戦争に備えて原始林地帯を貫通させた軍事鉄道で、原始林の中に小さな駅が点在するだけであった。当時、街として開けていたのは四〇キロ手前のアラサツーバ市までで(七頁地図参照)、それより奥地に一般人が立ち入ることはなかった。
 信濃海外協会が最初に移住地として購入した土地は無人の大原始林二、二〇〇アルケール(五、三二六ヘクタール)である。言うまでもなく永田と輪湖の構想では開発業者に頼ることは資金的に不可能であり、力行会員による新世界建設運動を起こすことが前提になっていた。
 アリアンサの開発がはじまる以前、ブラジルには力行会員は数えるほどしかいなかった。『ブラジル力行会四十年史』によると一九二四年時点ではサンパウロ市を中心に五〇人ばかりいる。しかし、いずれも職業を構えた年配者であって、実際の開発に参加できる者はいない。
 開発にかかったときは北原地価造夫妻、座光寺与一夫妻、サンパウロに在住していた力行会員軽部寿太郎と北原に随行した十九歳の少年伊藤忠雄の六人だけだった。開発用具としてはマッシャードと呼ばれる手斧、スコップ、ツルハシ、それに測量器具だけである。一行はルッサンビーラ駅から四二キロの地点まで荷物を担いで森林を分け入り、テントを張って野営し、まず周辺の伐採から始めた。さすがに軽部はおそれをなし、一週間後にはサンパウロ市へ立ち戻ったという。(伊藤忠雄談・一九九五年)
 年が明けて一九二五年二月、北原地価造の前居住地レジストロ植民地から田中治男、守屋又七(一九二一年組)、中村義弥(一九一八年組)、北原金作、北沢政喜、キューバに移住していた芦部安夫(一九一九年組)が駆けつける。そして八月には小川林(一九二一年組)ら力行会開発先遣隊メンバーが続々到着(十頁を参照)。翌一九二六(大正十五)年までには四〇人の会員が到着、入植者を迎える準備はほぼ完了した。

  村づくりの中心になった青年たち

 アリアンサ中央区には独身青年たちの寄宿寮青年ホームと、家族移住者の一時滞在用宿舎が建てられる。原始林をそれぞれの区画に分割するための測量が行われ、分割線に沿って樹を伐採し、通路を造る。
四十キロ離れたアラサツーバ市から家屋を建てる資材を購入して運び込む。現実には危険と向き合う過酷な労働だが、農業経験も労働経験もない若者たちがそれを担うわけだから、実際には大変な毎日が展開されたと想像される。だが、日本から次々家族単位の移住者がやってくるとみんな張り切った。全く未知の世界に飛び込んできた若者たちが、数ヶ月もすると海外学校で学んだ生半可な知識も原始林の中で鍛え直され、新しくやってくる移住者にとって頼りとされる存在となっていった。
 アリアンサの場合はやってくる移住者も農業経験のない都市生活者が多く、何をするにも青年たちの協力を必要とした。移住者は到着するとまず一時滞在用の宿舎に入る。抽選によって居住区画が決定されると、敷地となる森林の伐採、井戸掘り、家屋の建築、生活資材の調達など、すべて青年たちの協力を受けなければならない。村の行事を準備するのも青年であり、移住地経営事務、手続き書類を担当する事務職員も力行青年たちであった。
 青年たちもできあがった社会で働くのとは違って、いやおうなく村づくりの中心とならざるを得なかった。運営の基本は自治会で協議されるが、行政は信濃海外協会理事の輪湖俊午郎、北原地価造の指導のもとに力行会の青年たちがあたっている。
 一九二七年に入ると医療責任者として力行会監事の勝田正通(一九二一年組)が到着し、診療活動を開始する。

ピッカーダ作業中の相馬文雄(右側) 撮影弓場勇 原始林を切り分ける作業をピッカーダと呼ぶ。長野県庁の農業技師であった北原地価造は青年たちを指導しながら、独力で全区画の測量、ピッカーダを行う。
 このとき測量助手を務めた海外学校1924年組の戸叶伊佐美はブラジルの資格を取って専門の測量士になった。
 この写真は1927年にピッカーダ作業中の相馬文雄(右側)を弓場勇が撮影したもの。相馬は1926(大正15)年組の力行会員で当時19歳。新宿中村屋の四男で、父相馬愛蔵が購入した土地に入植したが、畑は請負者に任せ、自分はみんなと一緒に青年ホームに住み、ピッカーダ作業に従事していた。早稲田実業出身でアリアンサ野球チームの選手でもあった。


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