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アリアンサ運動の歴史第二部
  共生の大地を支えた青年たち

木村 快

大正14年 小川林の報告

小川 林 小川林(おがわ・りん)は一九〇一(明治三四)年、長野県富士見村で生まれる。一九二一年海外学校卒業後も本部スタッフ・講師として働き、論客としても知られる。アリアンサ開発がはじまると自ら三六ヘクタールの土地を購入、先遣隊メンバーとして入植。
 青年会長、力行会アリアンサ支部長としてアリアンサ野球場を建設し、小学校の開設に努力し、村づくりに献身。
 一九三一(昭和六)年、力行会南米農業練習所副所長に就任する直前、黄熱病で倒れ、三〇歳で病没。アリアンサ力行会としては大きな痛手となった。

第一報・アリアンサに到着しました
                小川 林

「力行世界」大正十四年十二月号より

 朝、まだ暗い五時起床、停車場に向かう。暗い汽車の中でローソクをつけて発車を待つ。ノロエステ線の汽車の客はバウルー、アラサツーバ、それを越えて隣州マット・グロッソまで行く客と三組に分けられる。汽車が着くたびにブラジル人も乗ってくるので、客の人相も服装も変わってくる。ピストルやファッカ(刀)を腰に吊げた猛者ばかりだ。その中に混じって日本婦人も子供をつれて乗ってきて、彼らと親しげに話している。彼女はブラジルに来て何年たつのだろうか。現在までの苦労話を聞きたかったが途中でおりてしまった。
 サンパウロを出て八時間でバウルー着、これからアラサツーバまで八時間。ルッサンピーラまではまた数時間かかるという。それも汽車が時間どおり走ってくれればだ。ブラジルの汽車が時間どおりに走るとは限らないとは日本でも聞いてきた。アラサツーバを出ると風景が変わってコーヒー樹は見えず、見渡す限りの牧場だ。
 ついに夜がきて、車内は静かになるが、ひどく揺れるので安眠はできない。しかも椅子は固い木製で背もたれも板、相当に節々がいたくなる。夜があけた。窓外は全くの密林、木々の葉が朝陽に光る。自然と讃美歌が口をついて出る。名も知れぬ木々の鮮やかな花が見える。時折、大河の流れが光って見える。チエテ川だ。コトベロ(数年後、駅名はノーバ・ニッポニアと変わる)駅に着いたとき、降りたのは我々日本人だけ。案内の輪湖さんが「ここが我々の土地だ」と大木の茂る処女林を指す。駅舎に数名のブラジル人がいてめいめいに手を差しのべて握手する。人のよさそうな男たちだ。急に兄弟のような頼もしさを覚える。駅の構内に数匹の豚が遊んでいる。
 会員守屋君が運転手で北原さんと二人でトラックで迎えに来てくれた。一行が乗れば疾風の如く欝蒼たる処女林の中を一直線に六里を走った。守屋君は時々おりて水を注ぎつつ波状形の道を上がったり下がったり二時間にして六里の道を駆ける。途中にミランダ氏の事務所の家があり、人には道路工夫の親子の外は誰にも会わなかった。
 処女林を抜ければアリアンサ事務所と切り払った地が展望された。「Fazenda Aliança!(アリアンサ移住地)」と入口にしるしたところを左に曲がれば、我らの依るべき、かたき城である。新来の我らを迎えて、山でのありったけの馳走を与えられる。芋も大根も肉も米もみんなここの収穫物であった。ここには北原さん、座光寺さんの家があった。
 昼食を終えてから二キロメートル隔った所の我々に与えられるべき地区を案内された。三十七キロ半の道の曲り角に収容所が立派に建てられてあった。その下に北澤さんに北山さんの家が建てられてあり、収容所には伊藤さんがおり、北澤さんは今日お産したと云われた。輪湖さんの留守に伊藤さんも出産したり、座光寺さんも妊娠したと云うので人々も中々繁殖して行く。みんなイグアペから来た真面目な人々である。我々の土地も協会の土地と合わせて百三十町歩程伐り倒してあった。これもみんな今年の内に広くしなければならぬと云うのだ。倒れた巨木がごろごろして居り枝が交差して一寸も踏み入れない。私のも四町歩だけ事務所で伐ってくれたから、ここで珈琲の植付けと間作をやるのである。
 希望のある苦痛は苦しくはあるまい。ブラジル人の伐木隊が未だ丁々と斧を入れていた。夕方になって夕食を馳走になっていると芦部君が牛の角笛を吹けば、真っ黒になった猛者が斧やホイセ(長い柄で枝や灌木を切るもの)をかついで帰ってくる。雄々しい開拓者の姿、我はスプーンを置いて、帰り来る諸君を迎えた。この青年によってこの新しい地が開かれていくのか、また我々もその一員に加えられるのである。親の脛をかぢりながら口角泡を飛ばしてそこに何の権威があるのだ。雄々しきパイオニアスピリット、罪なきこの処女林は我々の心がけに依ってどうにもなって行くのだ。開びゃく以来この一歩も踏み入れざる処女地は我等の来るのを待っていたのだ。また故国の諸君の来ることを待っている。罪をつくるも我等であり、住みよき地になすのも我々である。
 夕陽が森の中に赤く沈むとき、声を静めて感謝した。第一回の開拓者として入るにフランス瓦の屋根と板がこいの家に入ることはあまりに苦しみがない。この地に入るにはあまりに試練が少なかった。しかし今日親によりかかって来た我等がマッシャード(なた)に柄を入れるにも鎌の柄を入れるにも自らの力でなければならぬ。第一夜も疲れの内にぐっすりと朝迄一睡し通した。
 二十六日。婦人連の炊事により我らは二三町下の井戸から水を汲みあげ、カマドを据え薪を作りて焚いたのである。今は山焼の時期であるから空も煙におおわれている。夜などは虫の声と名も知らぬ鳥の声の外には何にも聞こえぬ静かさだ。今日は手紙を書いたり久し振りで休息する。ここには蚊はいないが密蜂や小さい虫が耳や目のまわりに来てうるさくてならぬ。昼は相当に屠いが朝晩は気持ちがよい。
 (中略)
 ここに着き、ホイセ(長柄の鎌)、マッシャード、エンシャドン(鍬)等を買い、柄を入れました。明日からボツボツ働きに出ます。一カ月後には小屋も出来ますから各々分かれます。篠原(秋次)君は奥さんを迎えるまで私と一カ所に居ることにしました。一カ月位はみんなして共同生活をします。米三斗七升百七ミル、豆五升四十五ミル、塩二十四キロ二十四ミル、概して高値です。日本円は現金で三ミル替えだそうで、段々日本円が下がり伯貨が上がります。

(文章は現代仮名遣いに修正)

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