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ブラジル移住史の謎・海外移住組合法

木村 快

 アリアンサ運動を語る場合、何はさておいても海外移住組合法について語らなければならない。アリアンサ運動は、その誕生から終結に至るまで日本政府の移民政策との葛藤の歴史であった。

 日本海外協会中央会がアリアンサ支援のため、四年の歳月をかけて準備・請願をつづけた「海外移住組合法」は、海外移住地支援法として一九二七(昭和二)年の第五十二帝国議会でやっと立法化された。だが、その直後に内閣の交代が起こり、田中義一新内閣はこれを国策支配の道具に変えてしまった。田中内閣は大正デモクラシーと呼ばれた時代から昭和ファシズム時代への転換点となった内閣で、それまでの国際協調路線から対中国強硬路線へと転換した内閣である。

 田中内閣は海外移住組合法施行規則を強制的に方向転換させ、全国各県に海外移住組合を組織させ、内務大臣を会頭とする「海外移住組合連合会」なる国策機関をつくりあげた。そして巨額な資金を投入してブラジルに広大な土地を購入し、ここへ各県の移住地を建設させる政策を掲げた。いわゆる「一県一村移住地政策」である。これはその後の満州移住政策の予行演習だったとも言われている。その結果、アリアンサ移住地は排除され、孤立と困窮の歴史を重ねることになる。そして一九三八年には国策移住地に飲み込まれてしまった。

 海外移住組合連合会は一九二八年から三〇年にかけて、ブラジル国内に七五、一二七アルケールス(一、八一八平方キロ)の土地を購入している(『ブラジルにおける日本人発展史』)。これは現在の東京都の島部を除いた総面積を越える広さで、さらに二二六平方キロに及ぶアリアンサ移住地を飲み込んでしまったのである。

 何の準備もないまま、ブラジル側の実状を無視した無謀な「一県一村移住地政策」は破綻するが、この広大な土地はバストス移住地、チエテ移住地、トレス・バラス移住地など大国策移住地に姿を変えた。そしてこの国策移住地の管理機構がやがてその後の、サンパウロ日系社会の中枢部分を構成することになる。

 海外移住組合連合会は昭和十二年の第七十帝国議会法律第四十三号で、日本の戦略資源確保の国策会社「日南産業株式会社」へと変身し、ブラジルから東南アジアにまで活動の場を拡げる。そして一九四五年、日本の敗戦とともに機能を停止、一九五〇年四月の第七国会で、その実態を明らかにしないまま消滅した。

 「海外移住組合法」とは歴史的にどのような役割を果たしたのか、なぜブラジルに一五〇万人もの日系人が存在するのか、またこの法律に翻弄されたアリアンサ移住地はその後どうなったのか。残念ながらその歴史について語る移住史および日本近代史は現在のところ存在しない。このため、国策移住の実態については不明のまま今日にいたっており、ブラジル移住史の謎とされている。

 だが、海外移住組合法の生き証人アリアンサ移住地は、ブラジル・サンパウロ州の奥地に、現在も日系人の村として存在している。その歴史をあらためてたどってみたい。

サンパウロ州元チエテ移住地の中心街ペレイラ・バレット市
 サンパウロ州元チエテ移住地の中心街ペレイラ・バレット市
 チエテ移住地は1929年に海外移住組合連合会が開設。サンパウロ市を源流とするチエテ河とブラジル中央部をアルゼンチンへと南下する大河パラナ河との合流地点にある。その面積は1,137km2、国策移住地の60%を占める大移住地である。東京23区と都下24市(八王子市、青梅市を除く)の総面積に匹敵する。
 現在はペレイラ・バレット、スザノポリス、イリアストレイダの3郡に分かれ、かつての中心街はペレイラ・バレット市になっている。アリアンサとはチエテ河を挟んで40キロの場所にある。人口は17万人、そのうち日系人は400家族と言われている。日系市会議員は定数17人中3人。(1997年・木村快取材)


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