homeHome
移住史ライブラリIndex | 移住年表 | 移住地図 | 参考資料

アリアンサ運動の歴史
第三部  ブラジル移住史の謎・海外移住組合法

木村 快

三、鳥取、富山及び熊本の苦境

  鳥取・富山の実状

 ここで鳥取、富山がどのような形でアリアンサ運動に参加したかを見てみよう。
 鳥取海外協会の成立は一九二六(大正十五)年五月二十七日、富山海外移民協会の成立は一九二七(昭和二)年一月である。中央会を構成する海外協会は大正十四年三月までに熊本、広島、和歌山、防長(山口)、香川、岡山、信濃(長野)、沖縄、鹿児島、三重、長崎、石川、福岡と十三の県で成立している。これらの県はいずれも多くの移民を送り出しており、移住地建設に強い関心を持っていた。また中央会の活動を通してアリアンサの進展状況と、移住組合法について内務省、外務省がどう対応しようとしているかも見守っていたはずである。したがって、組合法案の成り行きが見えるまでの一年余り、新しい海外協会は成立していない。

 ところが大正十五年五月から翌年一月にかけて、それまで移民問題とのかかわりの少なかった鳥取と富山が突然移住地建設に乗り出した。信濃海外協会の成立過程にも見られるように、それまでの海外協会は民間の運動として起こされ、行政の庇護を受けるために県知事を総裁に仰ぐというのが通例であったが、鳥取、富山の両海外協会は一九二五年後半に突如として設立され、どちらの場合も協会の運動があって土地を購入したのではなく、知事の号令によって急遽海外協会が設立され、土地購入をしたという形である。
 鳥取県知事、富山県知事を歴任した白上祐吉の決断によるものだった。しかし、当時の県知事は内務省の任命による官選知事であり、任期は一、二年である。したがって後任の県知事がこれをどのように継承するか、また本来民間運動であるべき海外協会がアリアンサ移住地に対してどうバックアップしていくのかが問われることになる。

  白上祐吉

白上祐吉 白上祐吉はもともと中央会の懇談グループの一員であり、移住組合法運動の経過については熟知していたと思われる。白上は石川県出身で、裏日本一帯の弱小県の産業振興については強い意欲を持っていた。永田稠の『頌寿記念』によれば若い頃は長野県の地方課長をしていたこともあるというから、山国の貧しい県が海外に移住地をつくるというアリアンサ運動には強い共感を持っていたようだ。

 白上が東京府副知事から鳥取県知事に赴任したのは一九二四年の十月である。党派的には当時の与党であった憲政会派と云われ、知事としても相当思い切ったことがやれたようだ。上京時には中央会へ顔を出し、アリアンサの進行状況を確かめ、中央会からパンフレットを持ち帰って地元で検討させていたという。

 アリアンサの土地分譲が予想以上に進展していた一九二五(大正十四)年五月頃、白上は中央会から永田稠を招き、県内の有力者を集めて南米移住地についての講演をさせている。これを機に鳥取海外協会が設立される。信濃の場合はこの段階から論議になり、二年近くかけて七万円程度の金しか集まらなかったわけだが、鳥取の場合は即時に県下各郡に資金を割り当て、十万円の資金を集め、一九二六(大正十五)年八月に、信濃と共営で五、二五〇ヘクタールの土地を共同購入している(信濃三二五〇ヘクタール分、鳥取二〇〇〇ヘクタール分)。第二アリアンサの誕生である。

 八月は白上が鳥取から富山へ転任する前月である。それが可能だったのは土地の選定、受け入れ準備はすべて信濃が責任を持つという前提があったからで、同時に信濃側としては鳥取県人だけで固まらず、抽籤によって全国からの入植者と混植するという条件を提示している。
 これは単なる交換条件ではなく、鳥取村をつくるのか、それとも全国単位の共生の村に参加するのかという根本的な理念の問題である。こうした共営方式は白上転任後の鳥取海外協会によって納得されていたのかどうかが問われることになる。


  信濃・鳥取両協会の合意事項

橋浦昌雄 『第二アリアンサ四十五年史』に寄せられた初代主任理事橋浦昌雄「第二アリアンサ四十五年史に寄せて」によれば、鳥取村創設の計画は次の石井保知事になって成立し、「大正十五年末に私に赴任の指令が来た」とある。当時、橋浦は大岩村村長であった。赴任の指令が海外協会からなのか、それとも県からなのかは明記していないが、「赴任の指令」とは役所の用語であり、現役の村長宛の指令であるから、これは実質的に県当局の指令と理解すべきであろう。
 橋浦は鳥取村を建設するつもりでブラジルへ向かうわけだが、神戸出港の直前になって、永田稠から白上・永田の合意事項についての確認を求められたという。

資料5『第二アリアンサ四十五年史』(一九七四年 P.58)

 先に移住地購入契約が正式登録されてより、大岩村の村長を辞した橋浦昌雄氏は、移住地現地理事として勇躍移住地に向った訳であるが、その出帆に先だち移住地建設の産婆役永田稠氏と海外協会会長の白上知事との両者間に鳥取信濃共営方針の協定あった事の了解を求められ、その方針通り共営案で行く事を決意、橋浦理事は現地に到着。
以来、現地の信濃協会理事の輪湖、北原両理事と共営案に対し基本的条項を決定すべく、種々打合せを行い、
一、入植者は鳥取信濃の区別なく、抽籤によって配耕地を決定する事。但し、同船者に限り、その希望を忖度し、両協会扱いを各一団として入植せしむる事を得、
 に始まる基本条項を決定した。

 橋浦は当惑したようである。鳥取側ではあくまで鳥取村で行くべきだとの意見もあったようだが、橋浦は合意事項を承認し、アリアンサへ向かう。橋浦は現地に乗り込んだ後も、自分なりに鳥取村の可能性を追求してみたが、実際には鳥取村を断念せざるを得なかったと書いている。
 どのような事情であったかは別にして、鳥取側は十分な事前調査や対策を持たないまま、橋浦をアリアンサへ送り込んだことになる。


  富山海外移民協会の設立

 白上祐吉は一九二六(大正十五)年九月に富山県知事に転任する。富山は薬行商で有名な県である。白上は中央会で知り合ったメキシコ在住の医師都留競を招き、製薬業者に引き合わせている。その結果、富山の製薬会社によってメキシコに国際製薬会社が設立されている。
 こうした気運を背景に、翌昭和二年一月に富山県海外移民協会が成立し、十万円の資金をあつめ、二月には信濃と共営で第三アリアンサとして七五〇〇ヘクタールの土地を共同購入する(信濃三〇〇〇ヘクタール分、富山四五〇〇ヘクタール分)。富山の場合も、海外移民協会は県の農林課長によって設立準備が進められている()。そして、県立福野農学校教諭の松沢謙二が幹事に任命され、現地主任としてアリアンサへ派遣されている。
 すでに信濃・鳥取の共営は開始されており、第五十二議会でも移住組合法は委員会附託となり、通過は確実であった。

 註・ 『創設十年』P.276

  熊本海外協会の場合

 熊本海外協会の設立は大正四年七月でもっとも古い。アリアンサの土地購入の際、この一帯を管理していたミランダ上院議員のもとで管理人をしていた測量士の林田鎮雄が熊本県人で、アリアンサ移住地が順調に進むのを見て熊本海外協会に移住地開設を働きかけていた。

 協会側も移住組合法成立を見越して移住地建設を決定し、急遽、金竹盛重を派遣している。熊本の場合も資金は十万円である。そして昭和二年一月にアリアンサ移住地の南隣接部に一、二六〇アルケール(三、四二〇ヘクタール)の土地を購入し、同年四月に第一回移住者十一家族五十名を送り出している。この移住地はビラ・ノーバ(新しい村)と名づけられた。

 一九二三年の信濃海外協会による移住地開設宣言以来、一移住地の建設は土地設備を含めて二十万円という定説ができあがっていたが、鳥取、富山、熊本が十万円で開設に踏み切ったのは、移住組合法による低利融資が実現すれば、初期投資の十万円はむしろ余裕になると見ていたからだと思われる()。

 田中内閣の国策急転換によって、アリアンサ四移住地の希望の門出は一転して地獄の始まりになってしまった。

 註・各移住地の準備資金については『信濃海外移住史』信濃海外協会・1952年刊による P.66


  官選知事の限界

 急転直下の鳥取、島根のアリアンサ参加は画期的なでき事であったが、県民側の運動が不十分であったため、政権の交代でアリアンサが窮状に追い込まれると、送り出した側も送り出された側も、受け身にならざるを得ず、特に移住者側は母県から十分なバックアップを受けることができず、苦闘を重ねることになる。白上としては大変不本意なことであったろう。政権の意向によって就任する官選知事の限界であった。

 白上は一九二七(昭和二)年五月十七日、富山から島根県知事に転任するが、島根県知事としては一日だけの在任という前例のない知事として名を残している。田中内閣の内務大臣鈴木喜三郎は翌年に予定されている第一回普通選挙の対策として、各府県知事に政友会系知事を強引に押し込んだことが知られているから、対立する憲政会派の白上は排除されたものと思われる。

 一九三六年発行の『創設十年』(P.182)に「白上知事が今、世俗に累せられ、、不遇の地位にあるといえども、鳥取移住地がある限り同移住者にとっては永遠に忘れられない恩人として銘記さるべき人である」とあるから、内務省を退官したものと思われる。おそらく、その後の鳥取移住地、富山移住地の窮状に対してはどうすることもできなかったのではないか。


 次へ


back home