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注・現在日本では「移民」という用語は使わず、「移住者」が使われている。しかし、ブラジル日系社会では現在でも「移民」が一般的であり、また日系社会で出版された文献のほとんどが「移民」を使っているので、ここでは「移民」と「移住」を適宜使い分けることにする。
日本人のブラジル移住は1908年(明治41年)の笠戸丸移民からはじまる。移住目的は世界的なコーヒー景気に沸くサンパウロ州のコーヒー農園が必要とする契約労働者としてだった。当時のブラジルでは労働力の需要が高まる一方で、1880年代に国際世論に押されて奴隷制を廃止したため、急遽、ヨーロッパからの移民に頼らざるを得ない事情があった。しかし、奴隷労働しかあつかったことのない労働管理は多くの紛争を引き起こすことになり、当時最大の移民送出国であったイタリアは一時ブラジルへの移住を禁止している。そこで、それまであまりなじみのなかった東洋の日本人を導入することになるわけだが、日本側でもアメリカ合衆国での日本人移民排斥の高まりに苦慮している時期であったから、両者の利害が一致し、急速に日本人のブラジル移住が増大することになる。
農園の契約労働者をコロノというが、契約期間は二年であった。移民会社の宣伝によれば二年も働くとかなりの金が稼げるはずだったが、実際にはそれほどの額にもならず、出稼ぎ目的の日本人にしてみれば、そう簡単に帰国するわけにもいかなかった。しかし、契約期間をあけてもコロノを継続する者はきわめて少なかった。食物や生活習慣の違う日本人にとって、農園労働は苦痛であり、たいていは自営農の下請けをやったり、原始林を買って開拓する自営農業の道を選んだ。そうなると農園側はさらに新しい労働力を必要とすることになり、日本の移民会社によってつぎつぎと出稼ぎ労働者が送り込まれることになる。
日本人の移住先はほとんどがサンパウロ州であった。1940年(昭和15年)4月時点での記録として、日本人移住者205,850人中、サンパウロ州在住者は193,364人となっている。
ちなみに各国からの移住者がどれくらい送り込まれたかについては、ブラジル地理学統計局の記録によると、1884年から1958年までの各国移住者は480万人余で、その内訳は次のようになっている。
イタリア人 | 1,514,897人 |
ポルトガル人 | 1,479,545人 |
スペイン人 | 663,512人 |
日本人 | 214,770人 |
ドイツ人 | 193,399人 |
ロシア人 | 109,891人 |
その他スイス、北欧など | 637,938人 |
ブラジルはもともとポルトガルの植民地であったからポルトガル人、ついで同じイベリア半島のスペイン人が多いのは当然として、奴隷解放後の労働力を埋める主力はイタリア人の出稼ぎ移住であった。ついで日本人となる。ドイツ人の移住は1861年からで、ヨーロッパからの政策移住としてはもっとも古い。そのわりに数が少ないのは、出稼ぎ労働としてではなく、ヌクレオ移民と呼ばれる植民地経営を目的とした自営農民が多いためである。ドイツは中世以来騎士団による植民地建設の経験が豊富であり、日本の移民事業とちがって、植民事業として取り組まれてきたという経緯がある。移住者を送り込む前に移住地の選定が重視され、農学者、地理学者、生物学者などによる調査活動を行う。ブラジル南部のサンタカタリーナ州にはこうしてつくられたドイツ風の町が数多くある。
日本人移住者の場合は出稼ぎ移住として送り込まれた後、移住者自身の努力で自営農への転換をはからなければならなかった。
日本人の移住が始まった1908年には、ノロエステ(北西)線がサンパウロ市から500km奥地のアラサツーバまで開通していた。この鉄道は開発のためというより、隣国パラグアイとの戦争に備えての軍事鉄道であったから、サンパウロから300kmほど内陸に位置するバウルー市を基点にして、西北方向にむかって大原始林の中をしゃにむに建設されていた。
1920年代に入ると、サンパウロ州政府は奥地振興政策として、この沿線の原始林を10アルケール(25ヘクタール)単位で売り出した。コロノ契約の終わった日本人移住者がいっせいにノロエステ沿線に入植をはじめた。記録で見る限り、それは無人の原野に日本人の群が殺到したという感じで、駅ごとに日本人移住地が誕生していく。正確な数はわからないが、1930年(昭和五年)版「三線年鑑」(聖州新報社編)によると、ノロエステ線沿線には200近い移住地名と八万五千人近くの日本人の数が記録されている。ノロエステ沿線はまさに日本の植民地と化した感があったようだ。このため1924年にはバウルー市に日本領事館が開設されている。
この地域で暮らす限り、ポルトゲース(ブラジルで使用されるポルトガル語)を覚える必要はなく、すべて日本語で用が足りたといわれる。ちなみに、ブラジルでの最初の邦字新聞はこうした小規模移住地の販売広告の手段として誕生した「週刊南米」という謄写版新聞で、創刊者の星名健一郎はのちに自らブンジョン耕地という移住地を開いている。そして、この最初の邦字新聞の記者として雇われたのが、後にアリアンサ移住地を立案した輪湖俊午郎であった。
同じ地域に土地を買った者同士が日本人会をつくり、それを植民地とか耕地と呼んだ。あけぼの植民地とか日の出植民地といった象徴的な名称を使ったものもあれば、ブラジルの地名をかぶせたバロコン植民地、マカウバ耕地といったもの、もともと原始林だから地名といったものはあまりなく、売り出した土地所有者の名にちなんだサン・ルイズ耕地とかジョン・マッシャード耕地といった具合である。規模は数家族から数十家族というのが一般的だったようだ。
あっという間に鉄道沿線に日本人植民地地帯ができあがったが、暮らしに必要な設備はすべて自分たちでつくらなければならなかったから、生活環境はたいへんきびしいものがあり、永続性がなかった。農法も焼き畑に頼る以外なく、作物の出来が悪くなると、つぎつぎ新しい土地を求めて移動する。子どもの教育もままならず、医療状況もきわめて劣悪で、移民はまさに棄民以外のなにものでもなかった。
それでも移民会社は日本政府からの渡航補助金やブラジルの農園からの斡旋料を稼ぐため、ブラジル移住を宣伝し、次から次へと移住者を送り込んだ。日清日露の両戦争で疲弊した経済にあえぐ政府としては、海外出稼ぎ者による本国送金は大きな魅力だった。
野放しの移住者送り込みに対しては、当然移住者側からの批判と、国益上の立場から国際関係を悪化させるのではないかという危惧とが生まれる。だが、まだ移住者側からの批判は十分には成熟していない。
野放し移民に批判を持ち、労働力輸出としての出稼移民ではなく、移住定着の植民を積極的にすすめるべきだと主張していたのは青柳郁太郎である。青柳は役人ではないが、アメリカ留学の経験もあり、早くから移民政策に興味を持っていた。彼は自費でペルー、ブラジルを歩き、ヨーロッパの移住政策にもよく通じていた。
彼は1913年(大正2年)に桂内閣のバックアップで、渋沢栄一ら財界人の出資を受けてブラジル拓殖会社を設立する。この会社はサンパウロ州政府と交渉し、サンパウロ南方を流れるリベイラ河畔イグアッペに植民地の建設をはじめる。最初の植民地は時の首相桂太郎を記念して桂植民地と名付けられた。つづいてレジストロ植民地が開設される。移住者は、日本を出発する前に会社から土地を買って入植する。植民地には病院、学校、売店、精米工場などが設置され、営農計画も会社の専門家によってたてられた。これは青柳がドイツ系の植民事業から学んだ方式であり、ブラジル定住をめざすはじめての本格的植民地であった。
この時期、日本政府は朝鮮半島の植民地統治を強化するためと、さらに中国、東南アジアにまで事業を拡大するため、東洋拓殖株式会社法を改定したばかりだった。そこで、ブラジルにおける植民事業も東洋拓殖に準ずる国策会社が必要だと考え、青柳のブラジル拓殖会社もふくめ、乱立する移民会社を海外興業株式会社に統合する方針を打ち出した。青柳はこれに最後まで抵抗するが、結局1919年(大正8年)に統合されてしまう。その結果、独自の植民地建設を展開しようとしていたイグアッペ植民地も経営権を海外興業に握られ、青柳の夢は挫折することになる。このころイグアッペ植民地はすでに400家族に達していた。イグアッペ植民地とは青柳のブラジル拓殖会社が開設した桂、レジストロに加え、海外興業によって新たに開設されたセッテバラス、キロンポ、ジュキアなどの植民地をふくめた総称である。
海外興業株式会社は国策によって生まれたとはいえ、人材は従来からの移民会社の寄り集まりであったから、必ずしも植民事業に熱心とはいえなかった。せっかく定住志向の植民地でありながら、すべて会社の方針に従わなければならず、入植者の自由な計画による生産活動はできなかった。にもかかわらず、会社が推進しようとした作物計画はほとんど失敗し、所期の目的を実現するには至らなかった。
輪湖俊午郎(わこ・しゅんごろう)は1914年(大正3年)にアメリカ合衆国からブラジルに転住してきたジャーナリストである。輪湖は1916年(大正5年)のはじめにブラジル日系社会で最初に創刊された「週刊南米」の記者として働き、その年の八月に金子保三郎とともに「日伯新聞」を創刊する。さらに、当時の松浦総領事に請われて、最初の日本語活字新聞である「伯剌西爾時報(ぶらじる・じほう)」の編集長に迎えられた。彼はアメリカでも日本語新聞の記者をしていたが、当時激しさを増しつつあった日本人移民排斥運動をつぶさに目撃し、日本人移民の実状に強い関心を持っていた。そのころ、青柳郁太郎がブラジルで定住志向の植民地建設をすすめていることを知ったことがブラジル転住の動機であった。しかし、「伯剌西爾時報」は海外興業の機関紙的性格を持った新聞であり、はからずも輪湖は青柳の夢であったイグアッペ植民地が、次第に海外興業の手によって変質していく様子を目撃することになる。
輪湖がブラジル移住に期待を持っていたのは、なんら保護されることなく先住移民の社会に入っていかなければならないアメリカ移住者とちがって、ブラジルでは処女地を対象とした開拓農業であり、移住者の数も多く、母国のバックアップが期待できると思われたからである。そして海外興業は国策によって誕生した会社であり、さまざまな問題を抱えながらも、長期的には新天地創造の機関となりうると期待していた。しかし、実際に関わってみると実態は移民屋の集合であり、とても移住問題を解決できる能力があるとは思えなかった。当然、彼の記事は海外興業幹部の不興を買うようになり、不満分子の扇動者とさえ見られるようになっていった。そして輪湖自身も新聞に対する情熱を失い、ついに1920年、伯剌西爾時報を辞職し、新しく開設されたセッテ・バラス植民地に農民として入植する。
ちょうどそんなころ、日本力行会会長の永田稠(ながた・しげし)が日本人の海外移住の実態調査のため北米、中米、南米を歴訪していた。
日本力行会は1897年(明治30年)、東京神田で島貫兵太夫という東北出身の牧師が貧しい学生たちの生活を支援するためにつくった組織である。故郷を追われた石川啄木も一時日本力行会の寄宿舎に滞在していたことがある。アメリカ留学の経験のある島貫は、日本の近代化のためには青年たちを積極的に海外文化に接触させる必要を感じていた。そして青年たちに、同じ苦学するなら海外に出て、国際的な視野を身につけるようすすめた。当時アメリカ合衆国が労働力不足であったこともあり、島貫はレストランの皿洗いやアメリカ人家庭の庭掃除といった仕事で学資を得るルートをつくりだし、多くの青年をアメリカに送りだした。また、東北の零細農民に対しても積極的にアメリカ移住をすすめた。
永田稠も力行会員として送り出された青年の一人だった。永田はカリフォルニアで「北米農報」という農業雑誌を発行しながら、当時次第に高まりつつあった日本人移民排斥の風潮に対する自衛策として北米日本人農業会の組織づくりをすすめていた。しかし1914年(大正3年)、病没した島貫会長の遺命で帰国、日本力行会第二代会長に就任する。
力行会は青年たちをアメリカに送り出す組織であったわけだが、アメリカの日本移民排斥を体験してきた永田は、アメリカに代わる新たな異文化吸収の場を探さなければならなかった。
1920年(大正9年)、永田は文部省から海外移住者子弟の教育事情調査の委託を受け、北米から中南米にかけて八ヶ月に及ぶ調査旅行を行うことになる。永田はアメリカ、ブラジル、ウルグァイ、アルゼンチン、チリ、パラグァイ、ペルー、キューバ、メキシコと九カ国を歴訪するが、特にブラジルに着目する。当時のブラジルは農業の開発に熱心で、海外からの移民を積極的に受け入れていたことと、アメリカ合衆国にくらべて人種差別が少なく、日本人の勤勉性がブラジル農業に大きく寄与すると思われたからだ。
永田は海外興業の新しい植民地にも関心を持ち、レジストロ植民地に入植していた力行会員の北原地価造(きたはら・ちかぞう)を訪ねるが、そこで輪湖俊午郎と出会う。輪湖は、日本政府が移住者を送り出すことには熱心でも、移住に伴う生活文化の確立にはあまり関心を払わないことに絶望していた。
二人は初対面であったが、輪湖は1906年から七年間、永田は1908年から五年間、ともにアメリカでの激しい排日運動を体験していたから、移住問題についてはお互いに共感するものがあった。輪湖によれば、移住地経営は移住者自身による自治運営が理想であり、移住は単なる労働力の輸出ではなく、生活者レベルでの国際化であるべきだという。永田は輪湖の見識に強い共鳴を覚え、一緒に新しい理想の移住地を建設しようと約束する。このとき、永田は39才、輪湖は29才だった。
翌1921年(大正10年)、輪湖は永田のすすめで単身帰国し、永田と共に日本力行会を拠点にして新しい移住地建設の運動を始める。キャッチフレーズは「20万円あればブラジルに理想の移住地ができる」だった。その十年前に青柳郁太郎が東京商工会議所をバックに起こしたブラジル拓殖会社の資本金が100万円であったことを考えれば、20万円という資金は大正デモクラシーの勃興期でもあり、市民レベルでも何とかなるのではないかという魅力的なひびきを持っていた。永田と輪湖は海外興業のような国益に基づいた指導型の植民地ではない、移住者自身の自治運営による協同組合方式の移住地を考えていた。輪湖のプランでは20万円あれば一世帯10アルケール(25ヘクタール)の土地配分で200から300世帯規模の移住地ができるはずだった。
しかし、現実にはなかなか運動は進展せず、輪湖や永田の活動資金でさえ力行会の活動資金を借用しなければならない状態だった。その上、滞在期間も残り少なくなったころ、輪湖はブラジルに残してきた妻から生まれたばかりの長男が病死したことを知らされ、すっかり意欲を失ってしまう。永田にしてみれば、自分の呼びかけで引き込んだ輪湖をこのままブラジルに帰すのは忍びなく、せめて移住地建設運動を継続するため、形だけの組織でもつくっておこうと考える。
そこで1921年暮れ、永田は信濃海外協会なる組織を発足させた。本来は全国規模の協会にしたかったわけだが、永田は長野県諏訪の出身だったこともあり、力行会の後援者でもある貴族院議員今井伍介の助言で、長野県知事の岡田忠彦を総裁にすえ、長野県の協力を受けることにしたのである。事務局長には輪湖をすえ、とりあえず20万円でできる移住地建設計画を文書化させてブラジルへ送り返した。
輪湖はブラジルに戻ると、領事館の移住民実態調査の仕事を引き受け、調査活動の合間をぬってひそかに候補地を探して歩いた。このときの調査をまとめた「のろえすて年鑑」はブラジル移住者の最初の実態調査記録といわれる。
一方、信濃海外協会はせっかく長野県の協力を当て込んで総裁に担いだ岡田知事が熊本へ転任したため、永田は新任の本間知事をその気にさせるために苦闘していた。いろいろ紆余曲折はあったが、永田は持ち前の政治力でなんとか本間の支持を取りつけ、募金活動を開始する。ところが今度は関東大震災で日本力行会自体の再建に飛び回らなければならなかった。そして翌1924年(大正13年)、20万円にはほど遠いが、7万円の金を握ってブラジルへ渡る。
輪湖は永田を迎えると、ブラジル上院議員のアルフレッド・ミランドと折衝し、サンパウロの奥地に三年延べ払いで2200アルケール(5500ヘクタール)の土地を買い付けることに成功。かつてレジストロ植民地で永田と輪湖を引き合わせた北原地価造(きたはら・ちかぞう)がスタッフを引き連れて開拓をはじめる。
新しい移住地名はブラジル語で一致、協力、和合を意味する「アリアンサ」とし、それまで一般的に使われていた「植民地」をさけ、「アリアンサ移住地」とした。「移民」に代わる新しい概念としての「移住」を使用した最初である。開拓責任者の北原はすでに一年前から移住地建設に備え、入念な準備をすすめていたし、開拓スタッフにはブラジル在住の力行会の青年たちが参加した。
アリアンサは移住者自身がプランアップし、移住者自身で建設に着手した最初の大規模移住地であり、またその後の政治的展開から最後ともなった唯一の移住地となる。移住地の土地分譲は1925年(大正14年)の二月から開始。その年の夏には第一次の入植者が送り込まれ、翌1926年には200区画を完売してしまった。運営は組合方式をとり、輪湖と北原がその指導に当たった。
また、ブラジル移住は家族移住が原則であったが、ここでも永田は領事館と折衝し、呼び寄せの形で50名枠の青年単独移住を実現、日本力行会の南米農業練習所を設置する。その後の移住問題を支えた各移住地の活動家、ジャーナリストにはここの出身者が多い。
アリアンサ移住地の成功は日本国内で大きな波紋を呼んだ。1926年(大正15年)にはすぐさま鳥取の海外協会が設立され、信濃と協同で第二アリアンサ移住地を開設、富山でも海外協会が設立され、これも信濃と協同で第三アリアンサ移住地を開設する。さらに、熊本海外協会もアリアンサの隣接地区にビーラ・ノーバ(新しい村)移住地を開設する。輪湖はこれらすべての移住地購入から設立事務を引き受ける。そして、アリアンサはサンパウロ州最奥地にありながら、あたかも移住運動のメッカの観を呈し、ブラジル中から、また日本から視察者が相次いだ。
こうしたブームを背景に1927年(昭和2年)、帝国議会で海外移住組合法が成立すると、あっというまに全県に海外協会が組織され、海外移住組合連合会が組織される。そしてこの連合会は朝鮮の植民地支配の中核である東洋拓殖株式会社と同様の権限を与えられ、ブラジルに現地組織としてブラジル拓殖組合(通称ブラ拓)を設立する。第二期の本格的国策移住の時代を迎えたわけである。
海外移住組合連合会の専務理事にはアリアンサ建設をバックアップした元長野県知事梅谷光貞(うめたに・みつさだ)が就任した。梅谷はただちにブラジルに渡り、輪湖を参謀に迎え、チエテ移住地(現サンパウロ州ペレイラ・バレット市)、バストス移住地(現サンパウロ州バストス市)、トレスバーラス移住地(現パラナ州アサイ市)を設立していく。
連合会では当初、毎年各移住組合の移住地を八つずつ開設し、200家族単位で各県別の移住地にする方針だった。しかし、現地の事情をまったく知らない人間が乗り込んできて、いきなり県別の村をつくるなどということは不可能なことである。輪湖は梅谷に、ブラジル側で統一した管理機構を作り、出身県にこだわらない全国的な移住地にするべきだと進言する。梅谷もこれに同意し、統一した移住地づくりに方向を転換するが、日本側の各海外協会はこれを納得せず、連合会の活動はスタートの段階から紛糾を重ねることになる。
海外におらが村をつくるというこの発想は、ブラジルでは輪湖らの反対で実現しなかったが、1932年から開始された満州開拓ではこれを強行することになる。
送り出し側と受け入れ側の思惑の違いは連合会内部にさまざまな人脈の抗争を引き起こすことになるが、さらにその背後には海外進出をねらう片倉製糸系と三菱系の主導権をめぐる対立があった。1930年(昭和5年)、右翼の襲撃で浜口首相が東京駅頭で遭難したため、三菱系の幣原喜重郎が代理首相に就任すると、片倉系の梅谷は辞任に追い込まれ、連合会は三菱系の平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)理事長と宮坂国人(みやさか・くにと)専務の体制になる。梅谷に協力してブラ拓移住地の建設に奔走していた輪湖も現地理事を辞任、これを機にアリアンサに戻って経営に専念するが、産業政策本位の移住政策を進めようとする連合会・ブラ拓とことごとく対立することになる。
しかし、ブラ拓との対立は政府からの補助金交付の面ではきわめて不利であり、アリアンサ内部にさまざまな対立を生み出すことになる。経営資金の欠乏に悩む鳥取、富山、熊本などの移住組合は次々と経営権をブラ拓に譲渡し、ブラ拓はアリアンサの大半を手中におさめる。ブラ拓はさらにアリアンサと隣接する地域にノーバ・アリアンサ移住地、フォルモーザ移住地を開設し、信濃移住組合の第一アリアンサは完全に孤立してしまう。
数々の葛藤を経て、最終的には信濃移住組合はブラ拓と共存提携しながらアリアンサの経営をすすめることになる。1934年2月、輪湖はひとまずアリアンサの見通しをつけた上でアリアンサの理事を辞任。アリアンサを去り、かつて自ら建設に当たったチエテ移住地に転居、移住運動から身を引く。その後、ブラ拓をはじめさまざまな機関から請われても決して受けなかったし、サンパウロ市への転住をすすめられても応じることはなかった。
アリアンサの成功が引き金になって成立した海外移住組合法が、結果としては永田や輪湖がもっとも恐れた官僚と大資本による国策移住をすすめることになったのは皮肉であった。そして第一アリアンサも1938年、ついにブラ拓の軍門に下り、ブラ拓傘下の移住地となる。
アリアンサが必死にブラ拓に抵抗した昭和6年から9年にかけては、日本が中国東北部に満州国を建設し、片やヨーロッパではヒトラー政権が成立した時代である。そして日本は国際連盟を脱退し、アメリカとの軍事対決路線を選択することになる。これ以降は満蒙開拓地に移住者を送り込むことが急務となり、ブラジル移住地にたいしては移住者の保護よりも綿花などの戦略物資調達の方が重視されるようになる。
一方ブラジル側でもナショナリズムが台頭し、日独伊移住民を対象とした外国語教育、外国語新聞の禁止が断行される。そして太平洋戦争開戦の年6月に神戸を出航したぶえのすあいれす丸で日本人のブラジル移住は終わりを告げる。ブラジル駐在の日本大使館、領事館、ブラ拓関係者はすべて日本に引き揚げ、ここに20万人以上の日本人移住者は事実上祖国から見放されることになる。
以上、戦前に開設されたサンパウロ州の日本人移住地の概略を述べたが、北ブラジル(アマゾン)の移住地としては1927年(昭和2年)に南米拓殖株式会社によってアマゾン河口のパラ州に開設されたアカラ植民地(現在のトメアスー移住地)と、アマゾン興業株式会社がアマゾン中流域パリンチンスに開いたジュート栽培地がある。アカラ植民地の経緯については、角田房子著「アマゾンの歌」(中公文庫)が詳しい。
パラグアイには1936年にブラ拓が開設したラ・コルメナ移住地があり、これが戦後のパラグアイ移住の布石となった。
戦後のブラジル移住は1952年のアマゾン移住から再開され、5万人以上が渡航しているが、それは戦前移住地への入植ではなく、サンパウロ州以外のアマゾン、マット・グロッソ州などに孤立して配置された。しかし大半は独自の発展を遂げることができず、消滅したものが多い。
戦後はブラジル経済の発展に伴って、日本人移住者は農業から離脱してサンパウロ市へ集中するようになる。かつての大規模移住地は、日系人の流出と入れ替わりにブラジル人人口が増大し、移住地は都市へと変貌していく。イグアッペ植民地はレジストロ市となり、チエテ移住地はペレイラ・バレット市、バストス移住地はバストス市に、トレス・バーラス移住地はアサイ市となっている。かつての大規模移住地で日系移住地のたたずまいを残すのは今ではアリアンサ移住地だけになってしまった。日系移住地の崩壊は産業経済面の歴史から見れば当然の成り行きとも言えるが、それは同時に移住民を支えてきた日本文化の崩壊をも意味している。
世界は国民国家抗争に明け暮れた20世紀から、人間の暮らしを地球規模で考えなければならない21世紀へと転換しはじめている。各国からの移住者によって構成されるブラジルでは、かつてのような多数派文化への同化を迫る政策を捨て、各移住民の文化を尊重する文化的多元主義の道を志向しようとしている。そのとき、日本から移住した人々の文化がどのような一角をなすのか。これは日系人の問題ではなく、これからの日本が背負わなければならない課題であるような気がする。
最後に日本人移住者とヨーロッパ系の移住者とのかかわりについてふれておきたい。日本人移住者によって残された記録には、まったくと言っていいほどヨーロッパ系移住者とのかかわりが記述されていない。これは当然のことのようにも考えられるが、実際に移住一世の話を聞いて回るとヨーロッパ系移住地とのかかわりが全くなかったわけでもなさそうである。しかし、日本人だけで独自の社会を構成していたため、生活者レベルでは言語の問題もあり、ほとんど関心を持つこともなかったのだろう。
記録には残されていなくても次のようなケースはかなりあったのではないかと思われる。ブラ拓が建設したバストス移住地は現在でこそパウリスタ線という鉄道と幹線道路がすぐ近くを通っているが、1929年の建設当時は50kmも離れたソロカバナ鉄道のクワタ駅から資材を運ばなければならない大密林のなかであった。この場所を選定したのは、すでにその7年前に第一次大戦の戦乱を逃れてきたレトニア人(ラトヴィア人)たちがバルパ植民地を建設しており、彼らが建設した道路で資材の大量輸送が可能になっていたためである。この道路はレトニア人が女子どもまで総動員してつくったもので、橋ひとつ建設するのにも多大な犠牲を払っている。この道路のおかげで、その後ロシア人、ドイツ人、フランス人、ウクライナ人、ブルガリア人などの植民地が建設され、最後に日本人の大規模移住地が建設される。
レトニア人は諸外国の侵略支配を受けつづけてきた小国の民であり、弱者の立場からの異文化共存に心を配ったようだ。彼らは他国の移住者たちのために、木材、瓦、石材など建設資材の提供、養鶏、牧畜の技術伝授に協力している。また、1931年のコーヒー植え付け禁止で綿作に転換する際も日本人はレトニア人から栽培方法を教わっている。記録には残されていないが、バストス移住地の建設にとってレトニア人の協力は欠かせないものだった。ブラ拓の技術者たちも移住地経営のための視察に何度も出かけているし、医療の面でもバストスに病院ができるまではレトニア人の病院が頼りであった。
アリアンサ移住地でも「パルマ参り」という言葉があったほどで、これは多くの青年がバルパ植民地にあったパルマ農場に研修に出かけたことを表現している。
ヨーロッパ系の移住地で生活した体験については、香山六郎の「香山六郎回想録」と、輪湖俊午郎の「流転の跡」にモンソン植民地での生活の記述がある。モンソン植民地は1909年にブラジル政府が外国移民のために開設した移住地で、学校、病院も完備した移住地であったらしい。日本人にも門戸は開放されていて、香山は1915年から数年間、輪湖はアメリカから再移住した1915年から1年ばかり香山宅に寄宿している。当時、モンソンには二十家族ほどの日本人が暮らしていたらしいが、やはり生活習慣の違いから日本人だけで固まっており、ヨーロッパ系の移住民に関心を持つものはいなかったようだ。しかし、ドイツ人、フランス人、イタリア人、スペイン人らで構成されるこの移住地は、各民族文化の展示場のようなおもむきがあり、輪湖にとっては移住地のあり方に関心を持つきっかけになったようだ。