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満天の星空の中天に南十字星が輝く。カノープス、アルクトゥルス、北半球では見られない星たちも、頭上に見つけられる。日本の反対側の地に立っていることを実感するのは、こんな星の夜でした。
1978年に木村快が訪ねて以来、現代座と交流を続けている、ブラジルのユバ農場。何度も話しには聞き、いつか行ってみたいとあこがれていたユバ農場に、五月末から六月末まで一カ月の訪問をすることができました。
成田を発ってから、56時間。初めての海外旅行に緊張し続けていたわたしは、ユバの大食堂にたどり着いたとき、不思議な懐かしさを感じました。
木造の大きな家屋、白熱球の明かり、虫の声、そこで迎えてくれた人たちの表情‥‥。農業を営む祖父母の家を思い出させる雰囲気があったのです。
それが、わたしが最初に感じた印象でした。
ユバ農場のことを、ここの人たちは「ヤマ」と呼びます。
なだらかな丘のうえにたっているところが、山を連想させるようです。
1935年に弓場勇氏が中心となって、ここに共同農場を創立して63年、今、ユバ農場には80人くらいの人たちが暮らしています。
二世、三世の青年や子どもたちも大勢いますが、ここではみんな日本語で日常会話をしています。日本から旅行者もよく訪れるし、新聞や日本の週刊誌も購読しているので、こちらがとまどうくらい日本のことを知っています。
ヤマの子どもたちの生活は、わたしよりも戦後に育った父の少年時代に近いのかもしれません。
朝は六時半頃に起きてバスで学校へ行き、昼過ぎに帰ると畑の仕事や、家の仕事をします。
小さな子は裸足でかけまわり、赤土まみれになって遊びます。手作りの秘密基地に集まる少年たち、年下の赤ちゃんを抱き上げる小さな女の子、おしゃべりをしながら出荷する果物を箱詰めする娘たち‥‥ここでは、きちんと子どもが人とのつながりの中にいる。
違う世代に生まれた人たちと共に生活していることが、新鮮に感じられました。
食事前のお祈りも、わたしにとっては新鮮な経験でした。年長者の「黙想」の一声で、それまでの騒ぎが静まり、どんな小さな子どもも頭を垂れてしまいます。主への祈りの文句があるでもなく、いっときの静かな黙想。特に宗教を持たないわたしは、最初はどう祈っていいのかわからず、とまどいました。
旅の疲れがとれた頃から、畑に連れていってもらいました。
慣れない手でクワを使って、苗のまわりの草取りをしたり、畑や木から野菜・果物を採ったりします。
ひょいと訪ねてくる旅行者も、ここに来ればいっしょになって畑仕事をすることが日常となっているので、野良着や長靴は借りることができます。
六月のブラジルは晩秋というころで、朝晩は冷えますが、日中は強い陽射しにさらされます。エンシャーダーと呼ばれるクワをおろしているうちに日が沈むと、トラクターの荷台に乗って大食堂に帰ります。夕暮れの牧草地を遠く見ながら、野菜のかごといっしょに揺られていると、いいようのない喜びを感じました。
農場に来た訪問者は、特に仕事が課せられるわけではありません。
最初に「ここでは、何をしてもいいし、何もしなくてもいい」と言われました。
しかし、何もしないでいると、一日が果てしなく長いのです。体調をくずした日には休んでいたのですが、いっこうに時間が過ぎないので、図書館の整理をしたりしていました。ヤマには約一万冊もの日本語書籍の蔵書を収める図書館があるのです。
畑の仕事や、台所の仕事を知るうちに、祈りに自然と感謝の気持ちがおこるようになりました。
ここでは自分たちで食べるものをつくっているのですが、肉も農場で飼っている鶏や豚を屠って解体します。初めて豚を殺すところを見たときは、まさに命をいただいているんだと、実感しました。
そうした素材を、これも自家製の味噌、醤油などを使って、調理するのです。
祈りの時は、大地と天と、生命、関わった人たちの手間、あるいはその日の喜びに、じっと黙想することで自分の中の何かが満たされていくような、幸福感がありました。
「うんとこしょ、どっこいしょ!」のかけ声が、客席からもかかります。
夕食後のひととき、大食堂の窓辺を舞台に見立てた人形劇「大きなかぶ」の上演は、おむつをつけた赤ちゃんから、明治生まれの老人まで集まり、にぎやかな劇場となりました。
芝居好きのエンミ(熊本由美子)から「『大きなかぶ』の人形があるんだけど、いっしょに台本をつくらない?」と声をかけられたのは、わたしがユバ農場に入って三日目のことでした。
それからは、一週間で台本がおおよその形となり、演じる女の子たちが集まりました。
彼女たちも物語は知っています。ヤマの日本語教室ではわたしたちと同じ国語の教科書を使っていて、「大きなかぶ」も読んだことがあるのです。
「わぁ、すごいにおい。何それ?」
「クマモトさんからもらった肥料だよ」
そっけなかった台本が、彼女たちのつくるアドリブで、生活感のある言葉になっていきます。
自分たちで野菜をつくり食べているここの人たちは、子どもだって「クマモトさんの肥料」のにおいを知っています。
一週間という短い稽古日数でしたが、「もう一回やろうよ」という彼女たちの熱意で舞台がつくられていきました。本番ではみんな生き生きと演技をし、大きな拍手を受けました。
人形劇の台本を書くことも、アコーディオンで効果音楽を弾くことも初めてのわたしでしたが、とても幸せな気持ちで客席と舞台の間に立っていました。
わたしが帰国する頃、同じ年頃の姉妹が日本へ発つ荷づくりをしていました。
ユバ農場はもともとわたしと同じくらいの世代が、他の世代に比べて少ないように見えます。実際は、サンパウロの学校に行っていたり、日本で働いていたりする人もいるので、もっといるのかもしれません。
「ずっとヤマで生まれ育ってきたので、外の世界も知りたかった」
帰りにサンパウロ市を案内してくれたエイジロー(矢崎栄二郎)君が言いました。
ユバ農場の近隣でも日系人の家族が生活していますが、若い人はほとんどポルトガル語で話します。
その中で、ヤマの子どもたちは日本語の中で育ち、学校に入ってからポルトガル語を覚えていきます。
また、ユバ農場には、もうひとつユバ・バレエ団としての一面があります。
これは、創立者の弓場勇氏の「祈り、耕し、芸術を愛する生活」との思想が、舞踏家の小原明子さんと出会ったことから、生まれたバレエ団だと聞いています。大人は日々の仕事が終わった後に、子どもは学校から帰った後に、バレエレッスンの時間があります。
芸術は専門家のものというイメージがありますが、ここの暮らしでは当たり前のように、楽器を弾き、バレエを踊ります。
それが当たり前となっていた生活の意味を、ヤマの外に出た若い世代は、あらためて気づいていくのでしょうか。
サンパウロ空港にむかうまでの間、エイジロー君とトランプゲームをしながら話しました。彼は、サンパウロの寿司屋で働きながら大学に通っている、わたしと同世代の青年です。
チョコレートを賭けての勝負、日本のゲームではいい勝負でしたが、ブラジルのゲームでは全敗。ヤマの子たちは、トランプゲームにめっぽう強いのです。ライバルがたくさんいる中で遊びながら育つためでしょう。
「ヤマには、また戻るつもりでいる。どう戻るかが、問題よ」と、彼は勝ち取ったチョコレートを分けながら言いました。
地球の反対側から日本に戻ってみれば、また時間と追いかけっこの日々です。思い返せば夢のようでもありますが、まぎれもなく、わたしはあそこに暮らす人たちと出会ったのです。
遠く遠く離れている、けれど忘れられない人たちです。以前は知ってさえいなかった、ブラジル移民の歴史と生活に触れて、自分の生まれ育った文化を意識することもありました。
いつか、またあのヤマを訪ねる日を楽しみにしています。
ヤマの子たちとの出会いを楽しみにしています。