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移住記念館

アリアンサ移住記念館のこと

木村快

忘れられた家

藪の中の輪湖邸

 現代座と交流のあるユバ農場はブラジルのサンパウロ州アリアンサにあります。このアリアンサで、いまアリアンサ移住記念館の建設運動が進められています。移住記念館といってもそんな大げさなものではなく、広大なサトウキビ畑にぽつんと取り残された、一軒の朽ちかけた家屋を、なんとか保存できないかという小さな運動です。この建物はアリアンサ移住地創設者の一人であった北原地価造(きたはら・ちかぞう)さんが住んでいた家で、かつては豊かな緑に囲まれた瀟洒な木造の建物でした。確かな記録はありませんが、村の古老の話によれば1929年(昭和4年)頃に建てられたものだといいます。
 正面に広いベランダがあります。いきなり文化も習慣も違うブラジル社会に飛び込んだ移住者たちは、さまざまな困難に出くわします。問題が起こるたびに、村人はまずこのベランダにやってきたそうです。北原さんは自家栽培のコーヒーをすすめ、にこにこしながら村人の話を聞いていたといいます。「地球の反対側にやってきたんだもの、いざこざがあるのは当たり前」。ベランダからはゆるやかに波打つ広大なサンパウロの平原が一望でき、小さな問題なら、コーヒーを飲んでいるうちに解決してしまうという、いかにもブラジルらしい話です。

失われる歴史

 1925年に生まれたこの移住地は、日本政府や移民会社の移住政策に対する批判から、日本力行会の永田稠(ながた・しげし)とブラジル在住のジャーナリスト輪湖俊午郎(わこ・しゅんごろう)が中心になり、日本国内の民間人の運動によって建設されたもので、ブラジル移住史の中でもきわめてめずらしい移住地です。アリアンサ建設運動は「移民」、「植民」といった官の側からの呼称に対して、移住者の側からの「移住」という用語を使い、ポルトガル語で協同・盟約を意味する「アリアンサ」という名称をつけるなど、理念的な移住運動でした。おそらく戦前戦後を通じて唯一のものでしょう。
 1995年、わたしはアリアンサに招かれ、こともあろうにアリアンサの歴史について講演をしたことがあります。たまたまわたしがアリアンサ創設者の一人である輪湖俊午郎の取材をしていたためです。素人のわたしにそんなことは無理だとお断りしたのですが、実は二世、三世の時代になり、アリアンサの歴史がわからなくなりつつあるというのです。産業史中心のブラジル移住史ではほとんどアリアンサについての記述は見あたりません。日本の移住学者の間でもアリアンサ運動について研究する人はいないようです。だから、たとえ素人でもいいからアリアンサについて知っている限りのことを話してほしいということでした。

新しい日伯の架け橋に

 わたしは調べた範囲のアリアンサの歴史と、「異文化社会の中で試行錯誤してきたアリアンサの歴史は、いま世界化をせまられ戸惑っているわたしたち日本人に、大変貴重な教訓を伝えてくれている」ということを話しました。そして最後に、いずれ日本の側から本格的に研究する人が現れたとき、その人たちに伝えるべき資料、建造物などはできるかぎり残しておいてほしいとお願いしました。
 このことがきっかけで、村の歴史を掘り起こそうという動きがおこり、北原邸を何とか保存しようではないかということになりました。そうこうするうちに、もうとっくの昔に失くなっていたはずの輪湖俊午郎邸も、実はある牧場の藪の中に残っていることがわかりました。
 北原邸も輪湖邸も譲渡についてはそれぞれ地主の了承を受け、移築する用地と労力はユバ農場が提供することになりました。おそらく今年中には日伯の架け橋となる記念館に生まれ変わるでしょう。現代座としても移築資金の募金をすすめることにしました。異文化とのきずなを育てるため、少額でも、できるだけ多くの方々にお願いしたいと思っています。


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