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「長野県の歴史」(山川出版社・1997年)および
「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」(大月書店・2000年)
アリアンサ移住地の記述についての疑問

アリアンサ移住地はブラジル信濃村か

木村 快

一、アリアンサ史と大きく違う点

 アリアンサ移住地はブラジル・サンパウロ州に現存する移住地である。
この移住地の建設は日本政府のブラジル移住政策に大きな影響を与えた移住地であるため、単なる移住地史としてより、日本の移住政策を語る上でしばしば問題になる移住地でもある。
 アリアンサ移住地の側には比較的よく資料が残されている反面、日本側には全くといってよいほど資料がない。
これは戦前、日本政府の設立したブラジル拓殖組合にかかわる資料が拓務省あるいは大東亜省によって抹殺されたためと思われる。
このため、ブラジル移住史でも、アリアンサ移住地建設からブラジル拓殖組合の設立にかけての経過はブラックボックスになったままである。
したがって、アリアンサ移住地建設にかかわる歴史が明らかになると言うことは、現在なぜブラジルに一四〇万人の日系人が存在するのかという根元的な問いに光を当てることにもなる。

 「長野県の歴史」(山川出版社・1997年)と「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」(大月書店・2000年)は、ともにアリアンサ移住地を「ブラジル信濃村」と呼び、アリアンサ移住地の建設が長野県民を悲惨な運命に追いやった満蒙開拓における一県一村移住地のはじまりであると述べている。
かつて長野県は多くの県民を満州移民として送り出し、悲惨な結末を遂げている。両書の著者らは、なぜそのような無責任な移住計画が推し進められたのかを主題にしているわけだが、その発端は「他民族を排除する郷党的親睦思想に基づいてブラジル信濃村(アリアンサ移住地)が建設された」ことから始まり、その「一県一村移住地構想」が満州移住計画の原型となったと主張している。
そして、それを中心になっ推し進めたのは信濃海外協会の永田稠であると断定している。

 だが、長野県における「ブラジル信濃村とはアリアンサ移住地」とする考え方はあまりに唐突であり、ブラジル移住史との関連が全く無視されている。
記述の内容を見る限り「長野県の歴史」も「義勇軍と信濃教育会」も長野県立歴史館研究員小平千文氏の「郷党的親睦思想による移植民と戦争」を原典としているように見受けられる。
しかし、この論文の内容はアリアンサ移住地が信濃海外協会によって開設されたというだけの理由で、何の論証もなく郷党的親睦思想に基づいて建設された排他的なブラジル信濃村と規定しており、アリアンサ関係者の間では一九九七年当時から問題になっていた。
しかし、「長野県の歴史」は長野県立歴史館の研究員四人による執筆なのでいちがいに無責任な断定とも思えないが、ことは日系人にとって重要なアイデンティティにかかわる問題であり、もしアリアンサを他民族を排除するブラジル信濃村とするのであれば、その根拠を明確にすべきではないだろうか。

 アリアンサ関係者からみて、両書のブラジル信濃村論で問題になるのは次のような記述である。

1 大正一三年からそのブラジル信濃村(アリアンサ移住地)建設がはじまり、その建設思想は郷党的親睦思想に核心が置かれていた。(資料1資料2

2 ブラジル信濃村を建設したのは信濃海外協会だが、その中心となったのは「皇国思想をよりどころにする信濃教育会」と「当初から満州移住を志向していた日本力行会の永田稠(ながた・しげし)」である。(資料2資料6資料7

3 永田稠が満州移民を昭和四年の拓務省設置まで待たねばならなかったのは、大正一二年の信濃海外協会第二回総会で本間利雄総裁に一蹴されたからである。(資料6

4 満州信濃村計画は「ブラジル信濃村建設方式による一県一村構想」を土台に推し進められた。(資料2

5 そしてこの他民族を排除する郷党的親睦思想は悲劇的な「中国残留婦人・孤児」問題を生んだ。(資料1

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