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半田知雄さん半田知雄さん(はんだ・ともお)

 一九〇六(明治三九)年、栃木県鹿沼市生まれ、一九一七(大正六)年、父母とともにブラジルへ渡り、コーヒー農園で働く。一九二一年、サンパウロ市に出てブラジル時報の文選工として働きながらブラジル語を学び、絵の修業を始める一九三五(昭和十)年、サンパウロ美術学校を卒業、仲間とサンパウロ美術研究会(聖美会)を結成。日系画家の草分けであり、移民の生活を題材にした画家として知られる。聖美会の創立者であり、作品選者であることから賞はいっさい受けなかった。
 また、サンパウロ人文科学研究所の研究理事を務め、ブラジル日本人移民史研究者としても著名。著書に『今なお旅路にあり』、『移民の生活の歴史』、『ブラジル日本移民史年表』などがある。一九九六年八月一日没。享年九十歳。

写真:病床の半田さんと  半田知雄さんをお訪ねしたのは一九九六年の六月のことだった。すでに半田さんは重病で面会はできないだろうと言われていたのだが、イビウーナ市の香山栄一さん(移住史研究者)を訪問した折り、香山さんが半田さんに電話で「輪湖俊午郎のことを調べている人がいる」と伝えたところ、ぜひ会いたいと言うことで、水野昌之さん(「バストスの二十五年」の著者)が半田さんのお宅のあるアチバイヤ市まで車で案内して下さった。  半田さんとはわたしが一九七八年に訪伯した折り、サンパウロ人文科学研究所でちょっと挨拶したことがある。その時、半田さんの書かれた「移民の生活と歴史」を買って帰ったことから、わたしは移住史に関心を持つようになった。
 玄関のホールには半田さんの絵が数点掛けられていた。寝室に案内されると、ベッドにやせ衰えた半田さんが横たわっていた。だが、九十歳とは思えない黒い髪と非常に澄んだ柔らかな目をしておられた。握手したときの手の感触もびっくりするほど柔らかい。まさか会えるとは思っていなかったので、感激する。
 寝室の壁にはマナブ間部画伯(ブラジルを代表する世界的な画家)の花を描いた油絵が二点かけてあり、半田さんはそれを示しながら、「間部はもうこういった具象は描かなくなった」と、それは慨嘆のようにもとれた。


 ワゴさん
 わたしは十五、六の頃、ブラジル時報の文選場で働いていました。輪湖さんはよく文選場に来て活字を拾っていました。輪湖さんのトランクにはWAGOと書いてあって、本当はワゴさんなのだと知りました。いつまでたってもわたしを子どもと思っているらしく、お目にかかると、いつも肩をたたいて「半田君、元気でやってるか」と言っておられました。

 輪湖俊午郎とブラジル拓植組合について
  輪湖さんがブラジル拓植組合設立期の理事だったことは本当です。しかし、これは輪湖さんが望んだことではなく、梅谷さん(海外移住組合連合会専務)に請われてアシスタントを務めたわけで、梅谷さんが専務をやめたら(昭和六年)、自分だけがブラ拓に残る意味はなかったと思います。そういう執着の全くない人でしたね。

 輪湖の海南島進出論について
 (「香山六郎編のブラジル移民四十年史・一九四八年刊でアンドウ・ゼンパチ氏が、「輪湖は昭和十六年に定住論を捨てて海南島進出論に転向した」と批判している件については)アンドウは私と机を向かい合わせて仕事した仲間ですがね、輪湖さんが紀元二六〇〇年祭から帰伯した当座、海南島進出論を唱えたのは事実です。日本で相当歓待を受けたでしょうし、われわれもそうだったけど、開戦当初は日本が勝つと思っていたはずですからね。そしてご自分は第五列容疑で逮捕されて、サンパウロの収容所に一年近く収監されていた時期です。
 そうなると、輪湖さんの定住論は子弟の教育という問題からはじまっていますから、このままブラジルで困窮するよりは新しい地でやり直した方がいいという考えはあったと思います。しかし、それは一時のことで、全体としては輪湖さんは定住のために献身した人です。

 輪湖俊午郎と香山六郎
 「香山六郎回想録」は半田さんも編集に携わっておられるので、香山六郎が輪湖に対してはかなり否定的な見方をしていることについて聞いてみた。半田さんは笑いながら、即座に、「香山さんはああいう人ですよ」と明快だった。
 輪湖さんは長身で、わたしの印象ではちょっと猫背だったような気がする。戦後、弓場農場でよく弓場為之助さん(弓場農場設立者・弓場勇の父)と碁を打ってましたがね、その後ろ姿が目に浮かびますよ。ちょっとそっ歯で、笑うとき「アハハハ」とは笑わず、「ホッホッホッ」といった笑い方をする人だったなあ。
 あの人は生涯を通して、自分の利益のために行動することのなかった人で、わたしの生涯に出会った人物としては、輪湖さんはもっとも尊敬すべき人です。

 弓場勇は怪物
 最初は十五分くらいで失礼するつもりだったが、「いや、寝てる分には問題ないから」と言ってくださり、ついつい四十分以上もお邪魔してしまった。帰る間際になって弓場勇の話になり、「あれは怪物です。今の日本人にはああいった怪物はちょっと理解できないでしょう。彼の本質を理解するには百年かかりますよ」と言われた。それがどういうことを意味しているのか聞きたかったが、かなり予定の時間が過ぎているので失礼せざるを得なかった。
 亡くなられたのはその二ヶ月後だった。

(一九九六年五月二八日、アチバイヤ市の半田さんのお宅で)

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