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ほんとうに悲しかったことは阿部智子さんからのお便り
先頃、小学生にお話しする機会がありました。ハンセン病になって一番悲しかったことは何ですかと聞かれて、父母や兄や姉と離れて、遠くの療養所に行かなければならなかったことですと答えました。 ほんとうは、悲しかったことはハンセン病を発症したことです。苦しかったことはハンセン病ゆえの数々の苦悩、苦痛、物事を自分の心のままに決めたり選んだりすることが出来なかったことです。いつも家族の暮らしぶりが気になり、家族の安心安全が優先してしまうことでした。 そもそも単純な感染症であったこの病気が、いつの間にか世にもおぞましく、治らない怖い病いとされ、家族の内に病気が発症したことが世間に知れたら、強制隔離はもちろん、地域からも疎外され、その土地では暮らしにくくなり、結局はその土地を離れて行かなければならなくなります。 ハンセン病患者は一生のうち二度死ぬと言われます。入所のとき、戸籍の上で死亡しているため、本当に骨になったときは、故郷を遠く離れた療園の納骨堂に眠ることしかできないのです。強制隔離の壁の中で数十年を暮らし、その人生を終わり、骨となっても、肉親の胸に抱かれることはありません。懐かしい故郷に帰ることも出来ない無縁の仏となって、永く療園の納骨堂に眠っています。 療養所ならば病気を治して家庭に帰るのが本来の姿ですが、私の場合十六歳の時でしたが、療養所に行くか行かないかを決断するには長い時間と最大の決意が必要でした。もし自分が今この場で死んだことにすれば、家族の平和は守られる。それなら陸の孤島と呼ばれたところに行ってもかまわないと決心しました。 数日前、以前恵楓園のレントゲン技師として永年勤務された方と数年ぶりにお会いすることが出来ました。長女の方がご一緒で、お元気ですかとお聞きすると、もう八十八歳になりますと言われました。勤務されていた時からやさしい人柄でしたが、その当時と変わらず、すぐに懐かしいと言って私の手を握りながら、娘さんに、「憶えていてくれたよ」と、とても嬉しそうに言われました。昭和十年に勤め始められて、四七年間の永年勤続だったそうです。 *阿部さんは一九五六年、十六歳で菊池恵楓園に入所された方です。夫君の阿部哲夫さんと共にNPO現代座の会員でもあり、調査取材の上でいつも協力していただいています。(木村) |