ほんとうに悲しかったことは

阿部智子さんからのお便り

インタビューに答える阿部智子さん(写真左)  先頃、小学生にお話しする機会がありました。ハンセン病になって一番悲しかったことは何ですかと聞かれて、父母や兄や姉と離れて、遠くの療養所に行かなければならなかったことですと答えました。
 つらかったことはどんなことですかとの問いには、父母の死を知らせてもらえなくて、何カ月もたってから、他人からそのことを知らされたときで、そのときは心の底から突き上げてくるような、怒り、悲しみ、恨みがあったけど、母の死から二十年、父の死から十八年になり、最近、ようやくお墓詣りをすることができて、それからはずいぶん心が楽になりましたと答えました。
 次に、苦しかったことはと聞かれて、子どもたちに対して真実は伝えなければならないと思いながらも、つい言葉を選び、オブラートに包むような説明になってしまいました。

 ほんとうは、悲しかったことはハンセン病を発症したことです。苦しかったことはハンセン病ゆえの数々の苦悩、苦痛、物事を自分の心のままに決めたり選んだりすることが出来なかったことです。いつも家族の暮らしぶりが気になり、家族の安心安全が優先してしまうことでした。

 そもそも単純な感染症であったこの病気が、いつの間にか世にもおぞましく、治らない怖い病いとされ、家族の内に病気が発症したことが世間に知れたら、強制隔離はもちろん、地域からも疎外され、その土地では暮らしにくくなり、結局はその土地を離れて行かなければならなくなります。
 「病人は病んでいるだけであって、罪人ではない」という言葉を聞いたことがあります。けれど、ハンセン病者は重罪を犯した者たち以上に人権を奪われ、過酷に扱われ、世間から打ち捨てられ、未だに根拠の無い偏見差別を受け続けています。その家族たちは病気でもないのに、ひたすら静かに、ひっそりと身を縮めて生きてきました。
 入り口はあっても出口の無い療養所に入れられた人々の生活は今も続き、亡き人の数も増えています。入所者の平均年齢は七十八歳、高齢でしかも重度の障害をもっている者が殆んどという状況になってきています。

 ハンセン病患者は一生のうち二度死ぬと言われます。入所のとき、戸籍の上で死亡しているため、本当に骨になったときは、故郷を遠く離れた療園の納骨堂に眠ることしかできないのです。強制隔離の壁の中で数十年を暮らし、その人生を終わり、骨となっても、肉親の胸に抱かれることはありません。懐かしい故郷に帰ることも出来ない無縁の仏となって、永く療園の納骨堂に眠っています。

 療養所ならば病気を治して家庭に帰るのが本来の姿ですが、私の場合十六歳の時でしたが、療養所に行くか行かないかを決断するには長い時間と最大の決意が必要でした。もし自分が今この場で死んだことにすれば、家族の平和は守られる。それなら陸の孤島と呼ばれたところに行ってもかまわないと決心しました。
 その療養所の暮らしは驚くことばかりでした。治療や療養をしなければならないはずの大勢の人たちが、園内のどこかしこで真剣に力を出し合い、汗を流して働いていました。それから療養生活の過ごし方、具合の悪くなった時や、治療の受け方、日常生活のこと、それやこれやは先輩方に聞いたり手助けをしてもらったりと、あれから四十八年八ヶ月になろうとしています。

 数日前、以前恵楓園のレントゲン技師として永年勤務された方と数年ぶりにお会いすることが出来ました。長女の方がご一緒で、お元気ですかとお聞きすると、もう八十八歳になりますと言われました。勤務されていた時からやさしい人柄でしたが、その当時と変わらず、すぐに懐かしいと言って私の手を握りながら、娘さんに、「憶えていてくれたよ」と、とても嬉しそうに言われました。昭和十年に勤め始められて、四七年間の永年勤続だったそうです。
 当時職員(医師、看護師)は皆んな頭から足元まで予防着という厳重な態勢で治療に当たっていましたが、この方は自然体で私たちに接してくれていたので、あまり緊張しなくて、楽な気分で受診できたのを思い出します。今も当時と変わらずさりげなく優しい笑顔で、心に壁を感じさせない、こんな方と、もうひとつの壁の中で出会えたことは、わたしにとってはとても幸せな良い想い出です。
 また会えるといいな‥‥‥、どうぞお元気で。

*阿部さんは一九五六年、十六歳で菊池恵楓園に入所された方です。夫君の阿部哲夫さんと共にNPO現代座の会員でもあり、調査取材の上でいつも協力していただいています。(木村)