インタビューに答える阿部智子さん(写真左)

ハンセン病国賠訴訟のその後 1

夢から覚めて  阿部智子さんの話

 子ども時代

 わたしは小さいときから川辺で遊ぶのが好きでした。子どもごころに、水がぬるんでくると春が近いなと感じたものです。冬を越して春になると、木の枝が薄赤く芽吹いてきます。枝の先にきらっと光る新芽が出てきます。その新芽が日の光に映えて、それはそれは美しいのです。
 春になると河原にオキナ草が咲きます。濃い赤のビロードのような花です。それが気になっていつも見に行っていました。それからもうネコヤナギが咲いたかなとか、風の感じや水がきらきら光るのを見て、もう秋が近いなとか思ったものです。
 花も木も、それから山も川も海も好きです。海はわたしのふるさとからは見えません。けれど川下の町に潮干狩りに行ったとき、川も好きだけれど海はもっとゆったりしていていいなあと思いました。
 あのころは香りのする花がいっぱいありました。わたしはスミレの花が好きで、それから梅の花、香りのある静かな花が好きです。
 わたしのうちは貧乏な百姓でしたから、父や母は田圃のそばにわらで編んだ篭を置いておき、わたしをその中に入れて働いていました。わたしはその篭のまわりで遊び、父や母は目の片方に子ども入れながら仕事をしていたのです。


最初の発病

 昭和二十八年、小学校六年生の一学期でした。体に湿疹が出たのです。虫に刺されたのに赤くならないと言った感じのものです。なんだろう、なんだろうと言っていたのですが、兄の嫁が病院で働いていたので、病院で診て貰うことになりました。その結果、わたしには知らされなかったのですが、ハンセン病ではないかと言われたようです。あとで聞いたところによれば、兄嫁は母に「早く療養所に連れて行かないと、保健所から連れに来る」と言ったそうです。
 兄はわたしより十四歳上ですから、当時、二十六、七歳だったでしょうか。わが家の中心的な働き手でした。兄夫婦にはまだよちよち歩きの子どもがいて、わたしはその子の子守をさせられていました。兄嫁はすぐ子どもを連れて実家に帰りました。それっきり戻ってこないので、わたしは長い里帰りだなと思っていました。
 母は毎日毎日、心配そうにわたしの顔をみるばかりで、本当のことを言ってくれません。何も知らないわたしは、しばらく学校へ行かなくてもよいと言われ、うれしかったのを覚えています。けれど、まわりはみんなわかっていたんですね、それ以来、幼なじみの友達も遊びに来なくなりました。
 母が新しい浴衣をつくってくれました。貧しい家庭なのになぜだろうと不思議でした。けれど、わたしの病気がなにか大変な病気らしいことはわかってきました。
 兄夫婦が別居したので、わたしは自宅療養をつづけることになりました。けれど、もう大好きな川辺でかけることはできなくなりました。
 母はあらゆる薬を手当たり次第集めました。いかがわしい薬でも、それがわたしの病気に効くと聞けば、とにかく手に入れてきて、わたしに飲ませるのでした。
 家から出ることもできず、一日することがありません。まだテレビのない時代でしたから、家の掃除をしたり、台所の汚れ物を磨いてみたりしていました。そんな生活を三年以上つづけたわけです。もちろん誰もたずねては来ません。学校の先生が一回訪ねてきたのは卒業証書を持ってきたときです。
 あとでこの時代のことを、母は「あのときすぐお前を療養所に入れた方がよかったね。手元に置いたばかりに苦しい思いをさせて可哀想なことをした」と言っていました。  でも、父も母もわたしのためにできる限りのことをしてくれました。ある年は、温泉に連れて行かれて、ひとりで湯治したことがあります。人里から遠く離れた山間の静かなところでした。まわりに話し相手がいませんでしたから、いつもひとりで草木に話しかけるのです。そのあたりの高原に咲く野アザミ、それからタマルリアザミが忘れられません。それは色鮮やかな真っ青な花です。