ハンセン病国賠訴訟のその後 1

夢から覚めて  阿部智子さんの話

 ふるさとの山に

 わたしは長い間、社会復帰などということは考えたことがありませんでした。社会の生活というものはあまりに遠いものになってしまって、望んでも叶わないことだし、身体的にも無理だと思っていたからです。それに、わたしには父も母もいませんから、もうふるさとには帰れません。
 わたしは子どもの頃から隔絶された心で生きてきて、家族と呼べるものがありません。自分の死後のことを考えるとき、夢のような願いですが、自分の骨を、ふるさとの見える山に散骨して貰いたいと思っていました。雨が降ればわたしは水に溶けて川へ流れていきます。川へ出たらわたしの家の近くを通れるのです。
 それから、わたしはきっと広々とした海に出るでしょう。海へ出たら世界中を巡り歩きたい。わたしは子どものときに入園しましたから、どこにも行ったことがありません。海に出たら、わたしの心はきっと軽くなるにちがいありません。そうしたら、魚と同じように自由に泳いで、好きなとこにどこでも行けるなあと思っていました。


 夢から覚めて

 あの五月十一日、ハンセン病国賠訴訟の判決が出たときは、訴えを起こした原告の方たちの努力が報われてほんとうによかったと思いました。それから原告の方たちを支えて、また、わたしたちハンセン病者全体のために一心に闘ってくださる人たちが、こんなにも大勢おられたのに、しばらくの間、わたしは気がつきませんでした。
 わたしは子どもの時から四十五年間も園にいたので、すっかり気持ちが押しつぶされてしまって、なかなか気持ちが開かなかったということもあります。その上、五年ばかり前から視力が低下し、体調もすぐれません。けれどこの判決が出たときは、自分も一人の入所者としてじっとしておられない気持ちになりました。以前に訴訟についてのアンケートが回ってきたときには「強力に支援する」に丸をつけました。
 長い間、わたしは自分たちの運命を考えるとき、いつもカモが群れているところに猛禽類が襲ってくる情景を思い浮かべていました。カモの群と人間の群れは似通っていると思うのです。恐ろしいワシやタカが襲ってくると、カモはわーっと逃げ散りますが、そのとき一番弱い者、幼い者、動きの鈍い者が犠牲になります。生き残った者はまた、まるで何事もなかったかのように群れています。どこで何が起こっていても関心を示さないのが人間の世の中だと思っていました。
 そんなわたしにとって、ハンセン病国賠訴訟の勝利は、ああ、人間の世の中にはこういうこともあったんだと、本当に目の覚める思いでした。
 一審では勝訴しましたが、国は控訴するということでした。なんとか控訴を断念させねばと思っているとき、園内で初めて開かれた弁護士さんの話を聞き、原告として加わりました。そして多くの皆さんのおかげで控訴をやめさせることができました。しかしその後、厚生労働省は、非入所者や遺族と裁判を始めました。
 わたしは身体に自信はなかったのですが、いつも悲しそうにわたしの顔を見つめていた母のことを思うと、せめて親の無念さを晴らすためにも、ひと声でも意見を言わなければと思い、みんなと一緒に東京へ行こうと思い立ちました。
 弁護士さんや支援する会の方々に手を引かれ、励まされ、背中を押されるような感じで、初めて飛行機に乗り東京へ向かいました。国会議員陳情、厚生労働省交渉と、参加してほんとによかったと思っています。
 長いこと療養所に閉じこめられていたわたしが、この裁判に参加したことで、いろんな人と出会うことができています。その都度、ああ、わたしはこの人と出会う運命だったのかなと思ったりします。生きていてほんとによかったと思います。そして2002年1月30日に、多数の皆さんの絶大なご支援のおかげで裁判は全面解決となりました。


 兄との再会

 これから、この園からも次々と社会復帰をめざして旅立つ人が出ようとしています。わたしもまだ父や母のお墓参りはできていません。けれど、社会復帰は五体満足でもそう簡単なことではないようです。
 今度、四十五年ぶりで兄と会いました。訴訟中の話を聞いて、弁護士さんに妹を捜してほしいと頼んだんだそうです。わたしは今さら会っても交わす言葉も通じないだろうし、会わなくてもいいと思いましたが、兄は自分も年だからどうしても会っておきたいと言います。やはり心残りだったのでしょう。
 兄と会ってみると、わたしをここに置いていったのに、記憶がないと言います。熊本市で暮らしてるのかなと思ってたと言うのです。それから「お母さんはここへ来てたのか」とも聞きました。そのときはさすがに答える言葉がありませんでした。母が会いに来ていることも知らなかったのは、母が兄にも黙っていたからでしょう。
 母は気丈な人で、ひとに頼るのが嫌いな人でした。しかし、兄にも黙っていたと言うことは、それほど世間の差別が家族に累を及ぼすと言うことを恐れたからだと思います。一方兄にしても、そのようにして直接かかわることが薄くなれば、兄弟と言えどそんな風に記憶が風化していくのかもしれません。
 こうして家族のきずながめちゃくちゃになってしまったのも、らい予防法がつくりだした世間の差別と、差別への恐れという悪循環が生み出したものではないでしょうか。訴訟が勝利したからと言って社会の側の差別がそう簡単に消えるとは考えられませんし、やはり多くの人々の助けを借りながら、わたしたち自身が強くならなければと思います。

(記・木村 快)

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