ハンセン病国賠訴訟のその後 1

夢から覚めて  阿部智子さんの話

 恵楓園(けいふうえん)

熊本恵楓園の監禁室。現在は撤去されているが、周りに高い塀が巡らされていた。  ここへ来たのは四月の中旬でしたから、キンセンカの花盛りでした。園内にはお花畑かがたくさんありました。道ばたにもずーっとお花畑があるのです。人はにぎやかに行き来しています。まだ子どもでしたから、明るくていいとこだなと思いました。ただ、不思議だったのは療養所だというのに、みんなが一生懸命働いていることでした。
 入所してくると、医師たちは必ず「二〜三年したら治って帰れるよ」と判で押したように言います。けれど、それがウソだと言うことはすぐわかりました。周りの人に「ここに何年いるのですか」と聞くと、十年だとか、二十年だという答えしか帰ってこなかったからです。
 わたしは十六歳という大人と子どもの中間の年齢でしたから、公民科というところに入居しました。大人だと一般舎という寮舎に入ります。広さは十五畳から二十畳くらいで、入所者が多いときは一人畳一枚という状態だったようです。
 こうした入所者の配置も職員ではなく患者がやっていました。療養所とは名前だけで、治療に専念できるわけではなく、みんな何らかの仕事につかなければなりません。けれど、重症者を二十四時間介護するなどという仕事はなり手がいません。人がやりたがらない仕事は、説得してやって貰わなくてはなりませんから、そんな世話役のような人事の仕事も大変だったようです。わたしもそんな人のお世話で同年齢の人三人と同じ部屋になりました。
 当時は入所歴が長い人とか、年長者とかが、新入所者や若い人たちの面倒を見るという仕組みでした。
 小中学生の子どもたちは少年舎と少女舎に入ります。少年舎に五十人ばかり、少女舎にはそれよりちょっと少ない四十人ぐらいがいました。その子どもたちをやはり二組の患者夫婦が面倒を見ていました。
 わたしが来たころは、炊事だけは職員に変わっていましたが、それまでは何から何まですべて患者の作業でやるのです。その職種は百二十を超えていました。
 そのうち、療養所なのになぜみんな一生懸命働いているのだろうと疑問を持ち始めました。見ているとずいぶん不合理なことが行われていますし、みんななぜ黙っているんだろう、何か言ったらどうなんだろうと思うようになります。
 患者が亡くなると遺体は大八車(だいはちぐるま)に積まれて火葬場へ運ばれていきます。これも患者の仕事です。大八車というのは、昔使われていた荷物を運ぶための木造の手引き車ですが、車輪のまわりに鉄の輪がはめてあるので、ガラガラ、ガタガタと音を立てます。その大八車でまるで荷物のように運ばれていく遺体を見るたびに、いろいろ考えました。


 中学校

 園の中には小学校も中学校もありました。わたしは故郷では中学校には行っていませんから、分校の先生からすすめられ、園内の中学校に入り直しました。患者と派遣された教師とが半々で教えていました。
 すでに戦前から、ハンセン病は人に移る病気ではないことがはっきりしていましたが、日本ではハンセン病が恐ろしい伝染病であるという政策が推し進められていましたから、派遣された教師たちは長靴を履くことになっていました。そして、教室にはいるとまず自分の手を消毒綿で丹念に拭いて、それから授業が始まります。教師が時間をかけて手を拭いている間中、子どもたちはじっとそれを見ているのです。
 事情のわかっている先生たちは親切でしたが、中にはひどい先生もいました。四十代の人でしたが、自分では蛇口をひねらず、知的に障害のある子に蛇口をあけさせて長靴を洗わせるのです。蛇口を閉めるのもその子です。だから、その子はいつも先生が来るのを待っていました。生徒の中では重症だったのはわたしくらいで、ほとんどの子が健常者と変わりませんでした。
 あるとき、いつも蛇口をあける子が学校を休んだことがありました。すると、その教師は長靴の先で蹴飛ばして蛇口をあけ、あとは流しっぱなしのまま教室に入ってきました。いつもだと、教室の引き戸を開けるのはわたしたちの役割でしたが、そのときは誰も戸を開けようとしませんでした。見ていると、さすがに長靴の靴先ではあけられず、自分の手で開けて入ってきました。そのかわりいつもより丹念に手を消毒していました。わたしたちは心の中で笑いながらじっとそれを見ていました。
 すると先生は、「いいかい、たとえばこのテーブルにもいっぱいバイ菌がいるんだよ」と言います。まるで、お前たちがバイ菌をまき散らしているんだと言わんばかりです。この先生にも子どもはいるだろうにと、悲しくなりました。
 わたしは重症の患者を見ても、ブリキで作った粗末な義足をつけた人を見ても嫌だと思ったりすることはありませんでしたが、こうして職員や教師からそれとなく受ける差別にはとげが刺さったようなつらさを感じていました。そしてまるで漬け物石を載せられたように、怒りはだんだんあきらめに変わっていったような気がします。