ハンセン病国賠訴訟のその後 1
夢から覚めて 阿部智子さんの話
セーラのように
父は争いごとの嫌いな人で、子どもたちにも我慢できる限りは我慢しろと言う人でした。
母は強い人でした。わたしの病気に関しても、母はいつも胸を張って生きるんだよ言っていました。母は十三歳で他人の家に働きに行き、ずいぶん苦労して育ったようです。学校にはほとんど行けなかったようで、友だちが学校へ行きましょうと誘いに来ると、「雨が降ったらね」と言っていたと笑っていました。雨が降らないかぎり、家の仕事の手伝いを休めなかったのです。
わたしは本が好きでした。母が「あんたはご飯も忘れて本を読むね」とあきれるほどでした。母は学校に行っていないから本を読むことができません。
雨が降ると母は縫い物をします。そのそばで本を読んでいると、「智子、声を出して読まんね」と言います。母が一番喜んで聞いてくれたのは「小公女」でした。
小公女の主人公セーラは、何不自由ない生活から突然屋根裏部屋の貧しい生活に追い込まれます。けれどセーラは貧しさやつらさにめげず、カチカチのパンをかじりながらネズミと友だちになり、心豊かな生活をつくりだします。
「兄ちゃんが読んでくれてもよくわからんが、智子が読むとよおくわかる」
母はそう言ってわたしをほめてくれました。わたしの将来を案じて、つらい運命にめげないで生きて欲しいと思ったのでしょう。
療養所へ
わたしは八人兄弟の末っ子でした。一番上の兄は戦争に行ったまま帰ってきませんでした。戦争が終わって十年もたっているのに、母は兄が生きて帰ってくるのではないかと思っていたようです。そんな話が出たとき、義理の兄がわたしに言いました。
「兄さんが帰ってきたとき、あんたが病気だとつらいんじゃないかな。早く治しておかんとね」
そう言われてみると、わたしも兄を悲しませたくないと思いました。もうそのころはわたしは自分の病気がわかっていましたから、わたしのために両親や家族が苦しんでいることも知っていました。わたしがいない方がいいのだろうなと思いました。けれど、どこにも行きようがありません。毎日死ぬことばかり考えました。どうしたらいい死に方ができるだろうかと考えるのです。ただ死ねばいいのではありません。死んでも見つかったら家族が困るのです。全部が消えてしまわなければならないのです。
わたしが入所することをかたく心に決めてから、母は仕事の合間に、あれやこれやと持って行くものなどを準備してくれていました。
その日は糸のカセをわたしに持たせて、母が巻き取りながら、何気ない話をしていたとき、突然母の顔が真っ赤にふくらんだのを見て、心臓発作か何かの身体の異変が起きたと思いました。次の瞬間、身体の底から振り絞るような「アーッ!」という叫び声とも泣き声とも何とも言いようのない声でした。けものの吠える声のようで、わたしはすごく驚きました。
でも、それは母がそれまで耐えて耐えて押しつぶしてきた悲しみのかたまりが一気に吹き出したものです。胸のつぶれる思いでしたが、母にそれ以上悲しい思いをさせたくなかったので、何にも気がつかなかった振りをして、「どうしたの?」と笑っていました。
小さな裁縫箱に針山、糸、ハサミを入れてその日は暮れました。
療養所に行くことになったのは昭和三十一年の四月です。わたしは十六歳になっていました。自分がここを出るときは棺(ひつぎ)に入って出るのと同じだから、もう二度と帰っては来られないと思いました。故郷の姿を自分の脳裏にしっかり焼き付けておこうと思いました。あそこに何があって、どこにどんな花が咲いているか、どんな実がなるかは今でも全部覚えています。
家の庭に大きな白梅の木がありました。その木の根本にうろがあって、子どもの時はそのうろの中に入ると誰からも見えないで、梅のにおいに囲まれてじっとしている、お気に入りの場所でした。
出発の日が来て、兄が町からハイヤーをやとってきました。運転手が二人ついていました。昼間だと近所にわかるからと、夜十一時に家を出ました。もう帰ってはこられないのだと、車の窓から家の灯が見えなくなるまで見ていました。
車がよくオーバーヒートする時代で、途中、何回も休みながら熊本へ向かいました。当時は夜中に走る車はめったにありませんでしたから、途中で警官に車を止められました。警官に恵楓園の場所を教わったのに、療養所を通りすぎてしまい、菊池市まで行ってから引き返してきました。あまりにも田舎道で、家などほとんどありませんでした。ここ(恵楓園)へ着いたのは朝の五時でした。
園に着くと一休みして、七時半に食事が出されました。見ると兄がいません。母に聞くと、もう帰ったと言います。「何か言って行った?」とたずねましたが、母は黙って首を振るだけでした。わたしにしてみれば、「身体に気をつけてがんばれよ」くらいは言ってくれてもいいのにと思いました。
診察、手続きの済むまでは一時収容所というところに入ります。それが済んでから園に入ります。はじめに、園名をつけるかと聞かれました。たいていの人は療養所に入ると、本名を捨てて園名をつけます。これは家族が差別されないように本名を隠すと言うこともあったでしょうし、また、自ら社会と縁を切るという意味があったのかもしれません。わたしは園名の意味がよくわからず、芸名といわれたような気がして「要りません」と答えました。
それから、死んだときは解剖していいですかと聞かれました。死んだあとでは痛くもかゆくもないので、「いいですよ」と答えましたた。しかし、あとになって、解剖されると言うことはここで死ぬということであり、やっぱりここは終身刑務所なのだと気がつきました。
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