ハンセン病国賠訴訟のその後 1
夢から覚めて 阿部智子さんの話
このまま死にたい
ここへ来たときはまだ、手足の麻痺はそれほどでもなかったのですが、この傷を治すためにずいぶん苦労しました。先輩たちはいろいろな薬を試されていますから、副作用のことなどもよく知っていて、あまりむきになって治療してはいけないよと言っていました。
人間、妙なもので、自分では終身刑務所に入るんだと思って来たのだけれど、それでもどこかに治って帰りたいという気持ちがあったのだと思います。あれこれ治療を受けているうちに、薬の副作用もあったのでしょう、麻痺がどんどん進行しました。
二十歳になったころから激痛に襲われるようになりました。首から下ほとんどが痛くなるのです。痛み止めとして副腎皮質ホルモンを使ったことがよくなかったようです。
激痛に襲われると、友だちが心配して医者を呼びに行こうかと言うのですが、呼びに行っても医者は決して見に来ませんし、看護婦が来て痛み止めの注射を打ってくれるだけです。
まるではりつけの刑にあったように寝ているのですが、この痛みが最高潮に達したとき息が止まれば幸せだと思いました。でも、その痛みに耐えた経験はその後の自分の生き方を強くしてくれたと思います。他人の痛みにも敏感になりました。あんな痛みを経験したのだからもう何も恐ろしいものはないと思っています。
行方不明
一九七五年に結婚しました。婚姻届を出そうと、母に頼んで戸籍抄本をとって貰いました。ところが、抄本を開いてみると、わたしは行方不明ということになっていました。行方不明なので、所在がわかればお知らせくださいという付箋つきでした。母は字が読めないのでそのまま送ってきたのでしょう。入籍はしないまま、抄本は今でもそのままにしてあります。
それにつけても「らい予防法」の廃止がもっと早かったら、母に喜んでもらえたのにと残念でなりません。
母の死
一九八九年、義兄から電話がありました。
「あんたには聞かせたくないんだが」と言いながら、
「ばあちゃんが亡くなったよ」と言いました。
「いつ?」
「もう三ヶ月になる」
何もかも壊れてしまったらいいと思うほどの衝撃でした。けれど、大声を上げて義兄を責めても仕方がないと思い、電話を切りました。
実は、なぜか母が死んだという夢を何度も見ていました。それが母の遺体を抱いて、なんとか生き返らせなくてはとあわてふためく夢なのです。
自分はすでのこの世にいないものとしてきたのだからと思い直し、「お母さん、楽になってよかったね」と言ってやりたいと思いました。「身軽になって、明るいところへ行ったんだね」と。
そう思ってからは夢を見なくなりました。ほんとに不思議な気がしますが、ちょうどわたしがここに入所してきた四月二十三日が母の亡くなった日だったのです。八十四歳でした。
父はその翌年九十一歳でなくなりました。もちろんこのときも知らせはなく、当然、葬式にも出られませんでした。
強制収容というものがなく、普通の病気のようにどこの病院にかかっても治療できたのなら、あんな悲しいことは起きなかったでしょう。絆が切れたような家族でも、長い年月、みんな苦しんできました。
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