ハンセン病に関する年表

(らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟原告団作成年表をもとに作成)

西暦年号ハンセン病をめぐるできごと
1873明6ノルウェーのハンセンが「らい菌」を発見する。
1907明40放浪らい患者の取締法として「らい予防法に関する件」が制定される。
1909明42内務省令でハンセン病は急性伝染病と同様の厳しい防疫・消毒の対象とすることになる。
1914大3この頃、療養所から逃走する患者が増える。(当時の患者のうち19パーセント)
1915大4子供を産ませないため、男性患者に対する断種手術が始まる。
1916大7刑務所と同様、療養所長に懲戒検束権が付与される。
1929昭4わが県から「らい」患者をなくそうという「無らい県運動」が全国に広がる。
1930昭5国際連盟らい委員会で治療による予防を原則にした「らい予防の原則」が作成される。
大日本医学会総会に招かれた国際連合保健委員ピウネル博士は日本政府の無差別的絶対隔離政策を批判。
1931昭6柳条湖事件(満州事変)勃発。「癩(らい)予防法」が制定され、患者の絶対隔離が強力に実行される。
1938昭13群馬県栗生楽泉園に「特別病室」の名の牢獄を設置。
1939昭14管理に反抗する者は所長の判断だけで特別病室への投獄がはじまる。
1940昭15熊本県本妙寺事件起こる。熊本市本妙寺周辺の患者部落を警官・療養所職員220人が襲撃し、患者157人を検挙。
1941昭16日本らい学会で強制隔離に反対する小笠原登博士が糾弾される。
1943昭18特効薬プロミンが開発され、欧米では外来治療への転換がはじまる。
1945昭20日本敗戦。
1947昭22日本国憲法施行。しかし「癩(らい)予防法」は存続。
1948昭23戦前は非合法であった妊娠中絶も、優生保護法によって、ハンセン病患者に対する優生手術が認められる。
1949昭24厚生省の発令で第2次「無らい県運動」はじまり、療養所を拡大し、全国的に患者狩りが行われる。
1951昭26第3回汎アメリカらい会議、各国から開放外来治療政策が報告される。
ハンセン病患者であったため、十分な捜査もなく、非公開の裁判で死刑判決を受けた「藤本事件」起こる。
国立療養所三園長、国会で強制隔離は必要と証言。
1952昭27WHO(世界保健機構)らい専門委員会でハンセン病患者の開放治療政策を推奨。
1953昭28MLT国際らい会議、各国から開放外来治療政策が報告される。
1953昭288月、戦前の「癩(らい)予防法」はさらに国会決議によって新たに「らい予防法」(新法)として制定され、強制隔離継続が決まる。抗議のための菊地恵楓園患者作業放棄闘争開始。各園も次々作業ストに入る。
全患協(全国国立らい療養所患者協議会)が国会陳情・座込み決行、座込みは1力月以上に及ぶ。
1954昭29黒髪校事件:熊本市で菊地恵楓園付属保育所竜田寮児童の入学拒否運動が起こる。
1956昭31ローマ宣言:「らい患者の救済と社会復帰のための会議」でハンセン病は伝染力微弱であることを確認、差別待遇的諸立法の撤廃、在宅治療の推進、早期治療の必要、社会復帰援助などが決議される。
1958昭33東京で開かれた第7回国際らい学会議で強制隔離政策をとる国は、その政策を全面的に破棄するよう勧奨。
1961昭36琉球政府「ハンセン氏病予防法」公布:退所又は退院の規定を設け、在宅予防措置として在宅医療の規定を設けて外来医療を促進(1972年、本土復帰後も継続)患者発生を減少させ、効果をあげてきた。
1963昭38全国患者協議会、厚生大臣宛に「らい予防法改正要請書」を提出、国の政策の誤りの根本的転換を強く求める。
1976昭51全国患者協議会が「在宅医療の促進」等を提唱。
1981昭56WHO、らい対策指針(多剤併用療法提唱)。
1983昭58らい予防法事業対策調査検討委員会が発足するが、単なる文献・現状調査にとどまる。
1987昭62全国所長連盟、「らい予防法の改正に関する請願」−「抜本的改正を」
1991平3全国患者協議会がらい予防法改正要請書を厚生大臣に提出。
1994平6全国所長連盟、らい予防法見直しを求める意見書。
1996平8らい予防法廃止。廃止の理由や国の責任は明記されず、厚生大臣の謝罪で終わる。
1998平107月、13人のハンセン病元患者によって熊本地裁で「らい予防法」違憲国家賠償請求の訴訟が起こされる。
2001平135月、「らい予防法」国賠訴訟判決。政府、控訴を断念。強制隔離の違憲性と立法議員の「立法の不作為」が指摘され、原告勝訴。
2002平14政府、非入所者・遺族補償問題で原告団と和解。
政府、全国の新聞に謝罪広告を出す。
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【無らい県運動】
一九二九(昭和四)年、愛知県ではじまった県内から「らい」を無くそうという民間運動が発端となり、全国に広がった運動。これにより各県の衛生当局は警察の協力のもと、住民の投書や村民の噂を根拠にして犯人探索のごとくしらみつぶしにらい患者を見つけ出しては各地の療養所に送り込んだ。
【特別病室】
職員の裁量によリ一方的に患者を収監する重監房。粟生楽泉園に設けられたこの「特別病室」には、全国から患者が送られ冬季は零下一八度〜二〇度という環境の下、電灯も暖房もない暗室で、一日梅干し1個と飯、布団二枚の処遇により多数死亡した。
【小笠原登博士糾弾】
京都大学皮膚化学特別研究室主任の小笠原登助教授が、らい病は遺伝病でも不治の病でもなく、また感染力も微弱であるから、患者らへの迫害を止めるべきだと主張したところ、日本らい学会で糾弾された事件。
【藤本事件】
一九五一年八月、熊本県下で起こった殺人事件。容疑者藤本松夫がハンセン病患者であったため、捜査段階で公平な取調べがなされず、証拠物件も危険物扱いにして充分な検証を怠った上、公判も療養所内の仮法廷で非公開のまま死刑判決。各刑事手続の過程で患者に対する差別と偏見が露呈した事件。現在再審の動きが起こっている。
【三園長国会証言】
一九五一年八月、第一二回国会参議院厚生委員会において参考人五人が発言したうち、林芳信(多摩全生園長)、光田健輔(愛生園長)、宮崎松記(恵楓園長)ら三園長の発言が、ハンセン病患者の強制収容や断種の励行、患者逃亡防止のための罰則強化等を内容とするものであったことから患者の中で大問題になった。光田愛生園園長は「今度は刑務所もできたのでありますから、逃走罪というような罰則が一つほしいのであります」と述べている。