菊池恵楓園に住む西日本原告団副団長の志村康さん(写真右)

ハンセン病国賠訴訟のその後 2

もがりむら

 差別との戦い

 ハンセン病国賠訴訟の判決が出てから一年がたちます。(この原稿は2002年に執筆しました。)
この四月には熊本恵楓園からも数人の社会復帰者が退所して行きました。しかし、本当の意味での社会復帰が実現するにはまだまだ多くの障害が待ち受けています。判決当初から、原告団や支援の人々の間では、この判決で問題が解決したのではなく、むしろ解決への道のりを歩き出すこれからが正念場だと言われていました。
 らい予防法が永い年月をかけてハンセン病患者に対する不当な差別や偏見をつくりだしてきたことについては、総理大臣が謝り、厚生労働大臣が謝りました。けれどそれで社会の側の差別や偏見が消えて行く保証はありません。肝心の「らい予防法」をつくった法務省は謝罪をしていませんし、厚生労働省の官僚も責任を明確にしようとはしていません。
 事実、判決確定後も菊池恵楓園の園長は「新聞は戦前のひどい状態ばかりを報道して、今でも患者たちが非人間的な状態に置かれているかのような誤解を与えている。裁判に参加しなかった大多数の患者は現在の幸せな暮らしに満足しており、家族も平和に暮らしている。療養所は福祉の典型だという人さえある」と判決内容を否定する講演をして患者たちの憤激を買っています。
 そして、それと呼応するかのように、「あなた達は療養所のおかげで病気が治り、立派に整備された療養所で手厚い保護を受けている。その上何を望むのか。あなたがたのわがままは納得できない」などといった嫌がらせの手紙が次々と舞い込んでいます。
 ここには、らい予防法がどれだけ多くの人々の人権を侵害し、取り返しのつかない状態に追いやってしまったかという痛みは見られません。らい予防法を廃止したのに、何の不満があるのだという態度には、お上にたてつく人間を従順な家畜小屋へ追い込もうとする新たな隔離思想を見る思いがします。

 もがりむら

 こうした動きに対して、菊池恵楓園に住む西日本原告団副団長の志村康(しむら・やすし)さんたちは今新たな戦いに立ち向かっています。それは裁判だけでは解決できない、社会の差別や偏見との戦いです。
 まだ「らい予防法」が廃止される以前の一九九三年、入院生活を送っていた志村さんは、病床で「殯邑(もがりむら)」というエッセイを書いています。「もがり」とは死者を葬るまでの間、数日間ひつぎに置いたまま別れを惜しむ古代の葬儀儀式のことです。ハンセン病患者は療養所というひつぎに横たえられ、ただ死を待つだけの存在であり、ハンセン病療養所とはそうした人間の邑(むら・集落の意)という意味で志村さんは「もがりむら」ということばをつくりました。もちろん、古代の「もがり」は高貴な人物のための儀式であって、志村さんが「もがりむら」と呼ぶのは最大の皮肉を込めた怒りの表現です。
 現代の「もがりむら」では遺骨になってもふるさとへ帰ることができません。今も納骨堂には三千二百の遺骨が眠っています。志村さんが訴訟に立ちあがったのは、この骨壺に眠る仲間のための弔い合戦でもありました。

 力なき正義は無力なり

 明治以来、ハンセン病患者の歴史はまさに命がけの戦いの歴史でした。けれど、社会からの隔離によって世論の支援を受けることができず、孤立した戦いを続けてきました。
 訴訟が始まってからの最初の正月、志村さんは仲間たちへの年賀状に「正義はわれにあり、必ず勝つ」と書いて出したところ、ある弁護士から「志村さん、正義だけでは勝たんよ」と言われたのだそうです。
 「いったいどういう意味だろうと思っていたんだが、たまたま雑誌『世界』を読んでいたら、フランスの哲学者パスカルの言葉を引用して『力のない正義は無力である』と書いている人がいた。その通りだと思った。正義が正義として力を発揮するためには、多くの国民の支援が必要です。ご存じのように水俣病裁判もずいぶん長くかかったが、あの裁判も当事者だけではどんなにがんばっても決して勝てなかったでしょう。世論という力が後押しして、はじめて正義が勝ったのです。ハンセン病国賠訴訟でも弁護団が一生懸命やってくれました。ハンセン病専門医からも心ある何人かの医師が原告側の証人として立ってくれました。そして、支援の力で、国民運動となって初めてあの裁判に勝てました。けれど、本当の問題はまだこれからです。これからこそ正義が本当の力を持たなければなりません。差別に苦しむ家族たちのためにも、これからの時代を担う人たちのためにも、そして納骨堂の骨壺が一つでも二つでも、ふるさとへ帰れるためにも、残り少ない人生ではあるが、がんばるつもりです。できるだけ多くの方々の支援をいただきたい」

(記・木村快)

 志村康(しむら・やすし)さんのこと

 上の写真は2002年2月11日、第二十四次のハンセン病国賠訴訟提訴が行われた熊本地裁で会ったときの志村さんである。
ところが、四月にお宅に伺って話をしているとき、テーブルの下で足をのばそうとしたら、何やら丸太状のものがゴロゴロしている。
 「わたしの足だよ。両方ともないんだ」と志村さんは笑った。見ると確かに二本の義足である。地裁で会ったときはたしか杖も持たずに歩いていたはずだった。
 昭和二十三年、旧制中学二年生の時発病、菊池恵楓園に入所。以後、独学で社会科学の勉強を始め、六法全書をひもどき、ハンセン病患者の隔離は人権を踏みにじる憲法違反だと確信を持つようになったという。
 昭和八年生まれ、闘志の固まりのような人だ。