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特集:アリアンサ移住地はブラジル信濃村か | 移住史ライブラリIndex |
ニッケイ新聞2003年6月23日掲載
アリアンサ移住地・矢崎正勝
先日、木村快さんの「日本の歴史から消えるブラジル移民」が掲載されたが、私も「長野県の歴史」(山川出版社)の「アリアンサ移住地は一県一村主義の郷党精神によって作られた排他的な村であり、その思想を受け継いで満州移民がなされ、結果、多くの残留孤児や残留婦人問題が生まれた」とする一文を目にしたときは、自分の目を信じることができないほどの衝撃を受けたものである。
いったいこのような問題に対してはどう対処してよいものかわからず、とりあえず、一九九四年以来アリアンサ移住地の資料を調べておられる木村快さんにお願いして、ありあんさ通信の8号に「長野県の歴史」の記述に対する疑問点を書いて頂き、心ある人々に訴えていた。
木村さんはNPO現代座の主宰者であるが、一九九四年の「もくれんのうた」ブラジル公演で来伯されて以来ブラジル移住に深い関心を持たれ、二〇〇〇年まで殆ど毎年来伯されて数ヶ月の滞在期間中、多くの移住地を丹念に歩かれて膨大な資料収集をされている。しかもアリアンサ移住地の歴史に関してはライフワークとしたいとまで仰って下さっている方である。
ところが、またまた二〇〇〇年に大月書店から「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」が出版され、ここにも同じような文章が載っており、これはただごとではないという気がしてきた。それにしても日本の歴史書は、現存する移住地に対して、調査もせずに、これほど断定的な見解を書き残してもいいものなのだろうか。
私は、一九六三年にアリアンサ(弓場農場)に入植したが、今日までアリアンサが郷党精神で作られたなどという言葉は只の一度も耳にしたことがない。近年、弓場の歴史を残したく思い立ち、またその延長としてアリアンサに関する資料収集をも始めるべく、一九九七年に木村快さんの助言により「アリアンサ史研究会」を有志の方達と共に発足させた。以来、門外漢ながらアリアンサ史関係の資料に目を通してきたが、何処にもそのような記述はない。
この、排他的な郷党精神の下に作られた移住地という見解は、従来のアリアンサ移住史を覆す記述であり、私達移住地の者にとって大変不名誉なことでもあるので、日本の関係者の方達に訂正して頂くよう要請したが、今もって誠意ある回答を得られていない。
また、移住地創設者永田稠力行会会長の御子息である、ブラジル力行会会長の永田久さんも再三日本側に抗議文を送られている。永田さんは主宰される雑誌「のうそん」にアリアンサ移住地の詳しい経緯を述べられ、三〇〇冊以上も長野県の関係者に送られたそうだが、しかし、やはり何の回答も得られないままのようである。
最近、鳥取県でもアリアンサの移住史編纂がすすめられているそうで、昨年は移住史編纂委員の方が調べに来られた。JICAの調査でも、サンパウロ人文科学研究所の方々が現地取材に来ておられる。ましてや、第一アリアンサは長野県の移住地として広く知られていることであり、区切りの年に行われる大きな入植祭には、必ずといっていいほど県から地位ある方々が遙々お見えにもなっているのである。
私は長野県出身ではないが、この地を故郷と思う一人として、是非とも今一度調査を仕直して頂き、正確な記述をして下さるよう願うものである。