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特集:アリアンサ移住地はブラジル信濃村か | 移住史ライブラリIndex

新津栄三ニッケイ新聞2003年6月26日掲載

アリアンサ移住地  信濃村のいきさつ

ありあんさ通信顧問・新津栄三(第一アリアンサ)

 六月十四日のニッケイ新聞に木村快さんの「日本の歴史から消えるブラジル移民―アリアンサ移住地は信濃村か」という表題の文章が発表されました。
 私共も「長野県の歴史」にアリアンサは郷党的親睦思想で作られた村で、その排他的思想が戦後悲惨な満州残留婦人、残留孤児を生んだと記述され、大変当惑していました。それに続いて二〇〇〇年には、さらに大月書店出版の書籍にも同様の記述が出て、これは放っておくと大変なことになると思っていました。
 問題は「アリアンサ移住地はブラジル信濃村か」と言うことですが、実は只の一回だけ、一九九九年、第一アリアンサ入植七五周年記念祭に信濃村という文字が掲げられました。その時の式典に関わった者として、その時の経緯を申し述べる必要があると思い筆をとりました。

 私は昭和九年、二分制限法が実施される前に、大量に送り出された人達にまぎれ込んで渡伯した者です。私は単独でしたので、新潟県人の一家の構成家族となって旅券が出ました。この新潟県の人は、信濃移住組合員となり長野県へ寄留した形で渡伯されました。昭和八年までの入植者は、長野県人九十三戸、県人外全国からの入植者三二九戸とあります。排他的な郷党思想は見あたりません。

 第一アリアンサは、一九二四年入植を始めて二年ほどで二二〇〇アルケール売り切れ、更に希望者があるところから、鳥取県一二〇〇アルケール、長野県八〇〇アルケールを隣接地に購入し、長野県が全て面倒を見て移住者を入れました。
 その時鳥取県は、県人だけをまとめて一カ所に入植させたかったと言いますが、長野県が反対し、全部到着順に土地を分譲入植させたこれも郷党的の反対です。
 長野県は全国から移住者を受け入れたため、第二アリアンサが満植になってもまだ応募者があり、更に第三アリアンサを富山県一二〇〇、長野県一八〇〇アルケール購入で移住者を入れました。移住者名簿には第二、第三へ入植した人達全部の名前が出ています。この第三アリアンサも全部長野県人側が面倒を見ました。

 ではどうして第一アリアンサ七五周年に突然信濃村が出てきたかと申しますと、第二次大戦後、日本が豊かになってきた頃から、第三アリアンサへ富山県から、県知事やら政治の有力者が度々訪れ、民間から慰問団が大挙してくるようになりました。日本語教師が派遣されて来、会館建設やら援助があり、ミランドポリスは高岡市と姉妹都市となったりで、ここへも高岡市から教師が来ております。 第三アリアンサの人達も親善使節とかで富山県へ招待されていくようになり、富山一辺倒高岡村と称しております。現在、富山、長野それぞれ十数家族、残りの他府県人は、長野県が送り込んだ人達です。

 第二アリアンサも少し遅れましたが、知事や訪問団が来るようになり、会館改築の援助や日本語教師も来ており、鳥取村と看板が掲げられています。現在三〇数家族、鳥取県人三家族、長野県人一〇家族、その他はやはり信濃移住組合員になって渡伯した人達です。
 私共の第一アリアンサも十数年前、日本語教師適任者が無くなり困っていたとき、サンパウロ大学客員教授で来ておられた馬瀬良雄先生が来訪され、先生のご協力で長野県からの教師派遣を長野県人会長を通して申請しました。長野県は教師は送れぬが、費用を援助すると県議会で決定、段々減額されましたが(来年から一二〇万円)これが大変役立って、今JICAから三人目の最後の教師を送ってもらっております。二世の女性の補助教師もおり、日系人子弟全員が日本語教育を受けております。
 そのお礼感謝の意味も込めて、第二鳥取、第三富山に倣って、七十五周年には中島輝雄県議会議長がお出でになったので、特に第一アリアンサ信濃村開拓七十五周年記念祭とした訳であります。これは一九九九年のことで、当時、私共は一九九七年に「長野県の歴史」が書かれていることなど何も知りませんでした。

 現在第一アリアンサは約九〇家族、来年は開拓八〇年を迎えます。今、日本語を勉強しているのは四世、何とか日系人としての自覚を持たせ、この村を守っていける様願っております。

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