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特集:アリアンサ移住地はブラジル信濃村か | 移住史ライブラリIndex |
サンパウロ新聞2003年11月20日掲載
「日本の歴史から移住史が抹殺されている。移住史は日系人のアイデンティティなのに、このままで良いのか」
日本で劇団NPO現代座(東京都小金井市)を主宰する脚本家、木村快さんが十年間にわたり、欠落した日本の「国策としての移住」を問い続けている。今回も二年ぶりに来伯、アリアンサ移住地弓場農場を中心に資料集めに奔走している。ブラジルの日本人移住、移住者を通して日本や日本人を見つめ続ける木村さんは点から線、線から面へとつなぎ合わせるジグソーパズルに似た作業に没頭している。
木村さんが初めてブラジルを訪れたのは、ブラジル日本移民七十周年祭にわいた一九七八年だった。「日本の文化性を知るにはブラジルの日本人移住者に会えば分かるのではないか」と来伯した。
「脚本は人間そのものを書く職業です。語る人の文化性が大切になる」とサンパウロをはじめ各地で日本人移住者をインタビュー、帰国後、ブラジル移住者の里帰りをテーマにした「もくれんのうた」を書き上げ日本各地で上演、話題となった。一九九四年には「もくれんのうた」ブラジル公演を実現させ、ブラジル十三都市で公演した。
このブラジル公演で木村さんは、多くの移住者から「今のうちに自分たちと母国日本とのかかわりを記録として残してほしい」と懇願され、アリアンサ移住地と弓場農場の歴史を調べ、ブラジルと日本の関わりを明らかにしようとアリアンサの人たちと協同で「ありあんさ史研究会」を立ち上げた。以来、年二回の「ありあんさ通信」を発行、様々な問題点を取り上げてきた。
移住研究家でも歴史学者でもない木村さんは、ブラジルの移住の歴史を調べようと、日本の歴史年表を丹念に調べたが、「移民、移住」がまったく記載されておらず愕然とした。
明治元年のハワイ移民送出に始まった日本の近代移住は、日本人の海外進出の貴重な歴史で、しかも明治、大正、昭和を通じて国策として移住に取り組んだ経緯がある。
「ブラジルだけではなく、どこでも同じですが、国策としての移住が欠落しているのです」と木村さんは指摘する。
また、アリアンサ移住地の研究を進めるうちに、日本の大手出版社がアリアンサ移住地を悲惨な結末を遂げた満州信濃村の元祖として取り上げていることを発見した。まったく事実に反するこの記述にアリアンサ移住地から出版社や長野県の新聞社、図書館に抗議文を送り、現地調査を求めるなどの措置を講じた。
「最初はなしのつぶてでしたが、最近になって記述を見直そうという動きも出てき始めているようです」と木村さんは説明する。
木村さんは一連の調査で突き当たったのが、一九二七年成立した海外移住組合法及び当時全国規模で組織された海外移住組合、海外移住組合連合会など移住に政策に関する資料がないことだった。木村さんは、アリアンサ移住地建設に構想段階から関わった輪湖俊午郎の足跡を追うが、日本側にもブラジル側にも資料が残っていないという。木村さんは、今も輪湖にこだわるのは、国策として移住者を送り出した海外移往組合法がキーポイントになるからだ。時代の流れの中でブラジル移住から満州川移住へと日本政府の方針が変更され、第二次世界大戦に突入したが、満州移住が侵略だと決め付けられたことが、戦後、日本政府が海外への移住を再開する際の足かせとなった。
「日本政府はアジアの問題とブラジルの問題を同一視し、都合の悪いことを忘れさせている」と木村さんは手厳しく批判する。
「ブラジルに資料が残っていれば…」と一緒の望みを託している木村さんだが、「欠落した移住の部分史を残したい。これは、コロニアのためだけではなく、日本のためなんです」とアリアンサ移住地に赴いた。