HomeHome
移住史ライブラリIndex | 移住年表 | 移住地図 | 参考資料

レジストロと輪湖俊午郎

木村 快

 伊藤さんの文章は、一九九五年、伊藤さんが八十九歳のとき書かれたもので、長野県人会創立三十五周年記念誌「信州人のあゆみ」に掲載されたものの原文である。アリアンサ移住地創設当時の様子を伝える貴重な記録なので転載させていただいた。なお、日本の読者のための注釈と小見出しはわたしがつけた。
 この文章の背景を多少書いておきたい。

 伊藤さん一家は一九一九年に、長野県から海外興業のレジストロ植民地に入植された。注釈でも簡単に説明してあるが、レジストロ植民地とは当時海外興業のイグアッペ植民地を構成する移住地で、イグアッペにはこのほかに桂植民地、セッテ・バラス、ジュキア、キロンボなどの植民地があった。
 この植民地は一九一三年(大正二年)に東京商工会議所の渋沢栄一らの出資を受けて設立されたブラジル拓殖会社(後のブラジル拓殖組合とは別)が開設したもので、日本移住史上、最初の計画的大移住地であった。これを企画し、自ら経営にあたったのは青柳郁太郎で、アメリカで新聞記者をしていた輪湖俊午郎がブラジルへの再移住を決意したのは、この青柳郁太郎の移住思想に共鳴したためであった。

 ところが一九一七年、日本政府の意向で、乱立する移民会社を国策の拓殖会社・海外興業株式会社に統合することになる。青柳郁太郎はこの統合に最後まで抵抗するが、結局は統合され、イグアッペ植民地の経営権も海外興業に握られることになる。このとき、松村貞雄総領事の要請によって輪湖俊午郎は海外興業の機関紙「伯剌西爾時報(ぶらじる・じほう)」の編集長に就任する。寄り合い所帯である海外興業の経営実態に不満を持ちながらも、輪湖は一九一八年(大正七年)、自ら移住者募集のため帰国。伊藤さんが長野県高遠町で輪湖の講演を聞いたというのはこのときのことである。

 翌一九一九年、輪湖は全国から集まった一三〇家族の移住者を引率してブラジルに戻るが、伊藤さん一家はこのときの移住である。しかし、輪湖はやがて海外興業の幹部と対立するようになり、伯剌西爾時報を辞任。そして日銭稼ぎに海外興業の道路造成の監督をしたりしていた。一九二〇年にブラジル訪問中の永田稠と出会った頃である。

 レジストロ在住の北島信氏の話によると、輪湖は同じく海外興業の経営政策に批判を持つ北島研三医師(北島氏の父君)や、のちに輪湖と行動をともにする北原地価造らとよく集まっては議論していたという。
 「アリアンサはレジストロにはじまる」と北島氏は言う。たしかに協同組合法式によるアリアンサ移住地の青写真は、青柳郁太郎の理想とは遠くかけ離れてしまったイグアッペ植民地経営の実態を下敷きにして考え出されたものであったようだ。

 アリアンサの建設は一九二三年(大正十三年)十一月から開始されるが、伊藤さんの文章にもあるように、レジストロ在住者の有形無形の協力があったようだ。このことは海外興業の幹部を激怒させたという。そして一九二四年の一月、二十才の伊藤さんがレジストロから輪湖に連れられてアリアンサ開拓に向かうことになる。


Back home