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新津英三 第一アリアンサ  新津英三

新津英三(にいづ・えいぞう 旧姓、芳川)
一九一五年、長野県下高井郡木島村字北鴨に生まれる。一九三三年、下高井農林学校卒業。
一九三四年渡伯、アリアンサ移住地に入植、今日に至る。信濃移住地組合員。
第一アリアンサ日伯文化体育協会会長、全アリアンサ文化協会会長を歴任後、現在、全アリアンサ文化協会顧問。

 私どもの村アリアンサは一九二四(大正十三)年に開設された移住地で、本年で開設七十六周年を迎えます。アリアンサは永田稠日本力行会会長によって計画され、ブラジル在住の輪湖俊午郎氏、北原地価造氏がこれに協力して実現した移住地でありますが、村もすでに三世、四世の時代となり、私ども一世としては子供や孫達に日系移住者としての文化をどう伝えるかに心を砕いております。

 村に生まれながら村の歴史がわからないような移住地にしてはいけないと、村の中央に北原地価造記念公園をつくり、アリアンサ生みの親である永田稠日本力行会長の記念像も設置しました。ただ、永田、北原両氏と共に移住地建設に献身された輪湖俊午郎氏は、昭和十年にアリアンサを去られたこともあって、若い人々の間では輪湖さんを知らない者も増えてきていました。

 そのため、あらためてアリアンサ移住地の発祥を明確にする事業の一つとして、一九九五年には全ブラジルの日系人に呼びかけて、長年の懸案であった輪湖俊午郎頌徳碑を北原地価造記念公園の一角に建立いたしました。輪湖さんはアリアンサだけでなく、全ブラジルの日本人同胞のために貢献された方なので、全ブラジルの日系人の間から浄財が寄せられ、除幕式にはサンパウロ市からも大勢の方が参集されました。この運動が引き金となって、昨年は北原地価造・輪湖俊午郎記念館も無事完成いたしました。その節は日本の皆様からも多くの浄財を寄せていただき、村一同心から感謝しております。

 こうして若い世代も含めて先駆者を偲び、日本とのきずなを強めて行こうと努力をしていますが、最近、私どもが心を痛めていることは、日本でアリアンサについて大変間違った紹介をされていることであります。「長野県の歴史」という本に、アリアンサ移住地の建設は同郷人による共同体作りに核心がおかれた排他的移住地作りを目的にしたかのように書かれていることであります。これはアリアンサに移住した者にとって全く心外な話であります。

 永田稠日本力行会会長がアリアンサ移住地作りを計画したのは、そのような動機によるものではなく、アメリカにおける日本移民排斥によるものであって、移住者たちを人種偏見のないブラジルに送り、人間として少しでもよりよい生活のきずける村をつくることが目的でありました。私もそうした理想に共鳴して移住したのであります。

 「長野県の歴史」という本では郷党的親睦思想などと書かれてありますが、アリアンサ移住地入植者名簿を見れば明らかなように、アリアンサ移住地は当初から全国に移住の呼びかけを行い、信濃移住組合をつくり、組合方式による入植をすすめた移住地であります。これはブラジル移住の歴史でも大変めずらしい移住地だと言われています。

 アリアンサには第一、第二、第三と三移住地がありますが、第二アリアンサ移住地は鳥取海外協会と信濃海外協会、第三アリアンサ移住地は富山移植民協会と信濃海外協会との共同開発であります。鳥取、富山からはそれぞれ同県人のみが送り出されておりますが、信濃は第二、第三においても全国からの移住者を入植させております。

 移住地創設者の永田会長はキリスト者でありましたから、特にブラジルはキリスト教国でもあり、宗教的摩擦もないようにと配慮し、一通り聖書の教育を受けた人々を中核として送り出すようつとめております。他民族を排除するなどとんでもない話であります。私どもの聞いておる話では、満蒙の移住地においてもこの永田方式で建設された満州力行村の移住者たちは、中国人との協同に努力をし、日本敗戦時の混乱期にも中国人たちによる保護を受け、全員無事に帰国したということであります。ブラジル移住、満蒙移住にかかわらず、中にはそうした努力をした者もあったことを考えていただきたいと思います。

 現在、第二アリアンサは鳥取県から、第三アリアンサは富山県から日本語教師が派遣され、人的交流も盛んで、鳥取村、富山村と称されるようになってきました。どちらも本来は信濃との共同開設なのですが、残念ながら信濃の名は忘れ去られようとしています。これは戦前から苦労してきた一世たちにとっては大変残念なことであります。そのため、この村が長野県にゆかりのある先駆者たちによって築かれた村であることを次の世代に伝えるべく、昨年(一九九九年)の開拓七十五周年記念祭において、初めてこの村の名称を「第一アリアンサ信濃移住地」といたしました。

 長野県が国際化に熱心な県であることは私どもも承知しております。しかし、一方でブラジル移住者に対するこうした偏見は大変残念なことであります。
 私どもが母国文化を大切にしたいと望むのはただの郷愁からではありません。わたしたちの子供や孫が日系人としてどう生きていくのか、母国とどう協力していくのかによって、ブラジル及び日本の国際化にも貢献できると考えるからであります。日本の移住政策には多くの問題がありましたが、アリアンサ移住地は消えてしまった移住地ではありません。今なお日本文化の継承に努力を続けている移住地であります。ブラジルには現在百四十万人の日系人がいますが、いま日本文化の継承という面では多くの問題を抱えています。幸いアリアンサは日本語が通じ、日本的気風の残る移住地として、日本から来られた方からも好感を持っていただいているようです。

 日本では、ブラジルで何のために日本語を勉強しなければならないのかという人達もおられるそうでが、ブラジルという国はいろいろな国からの移住者が集まってできた国でありますから、それぞれの民族の文化が大切にされる国であります。ポルトガル系は言うに及ばず、ドイツ系、イタリア系、日系とそれぞれの努力がブラジルの文化をきずいているのです。たとえば、ブラジル農業の今日があるのは、みな日系人の努力によるものだということはブラジル人なら誰でも認めるところであります。
 また一九九七年には連邦政府の文化大臣が日本文化を継承するユバ農場を視察するため、わざわざアリアンサを訪問されました。一九九七年に天皇ご夫妻がご来伯の折りには、美智子妃殿下のご指名で絵本作家の弓場かつえさん(ユバ農場)が招かれ、親しくお言葉を賜っております。

 立派なブラジル人であると言うことは、それぞれの母国の文化を大切に受け継ぎ、新しいブラジルに寄与する人間を意味します。私たち日系人が日本の文化と切れてしまったら、この国で果たす役割を失うことになり、ただブラジルの人口を増やすというに過ぎなくなります。私たちの子どもや孫が立派なブラジル人になるためにも、日本語を学ぶことはとても大切なことなのです。今、アリアンサ出身者は全ブラジル各地でそれぞれ立派な働きをしております。

 アリアンサ村もいま多くのブラジルの農村同様、人口が減少しつつあり、苦闘しています。しかし、農業技術の研究、新しい農作物や果実の導入など新たな取り組みをすすめながら、なんとしてもアリアンサ移住地の面目を失わぬよう努力してまいるつもりです。

 どうか日本の皆様におかれましては、今一度私たちを送り出した意味を再検討していただき、二十一世紀の日本とブラジルを強い絆で結びつけるためのご支援をお願いしたいと思っております。

編集部註 新津英三さんは輪湖俊午郎頌徳碑建設委員会委員長をつとめられた方です。またブラジルにおける俳人としても著名な方で、俳号を稚鴎(ちおう)と称され、一九九七年にNHKのETV特集「ブラジルの俳句」でその創作活動の様子が紹介されています。


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