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アリアンサの証言4

赤土の大地に立つ劇場

小原明子

小原明子 「サンパウロ市から西へ六百キロ。三百六十度、見渡す限りの地平線の中を、唯一本のアスファルト道路は何処までも続いていました。まるでそれは、空の向こうまで続く道のように思われました。赤土道のその先に弓場農場がありました。真っ黒に日焼けした、皺だらけの顔。節くれ立った手。白い髪の毛、白い鬚。歯の抜けた口を大きく開けて、底抜けに明るく笑う人達の顔がありました。やさしい中に、鋭く光る眼がありました。まるで土の中から生まれてきたような子供達が、泥まみれになって夢中で遊んでいました」
 これはユバ・バレエ団のレパートリーの一つ「よろこびの歌」の幕開きに私が語るナレーションの一節です。今から四十年前、六十日の船旅を終えてブラジルのサントス港に着いた、彫刻家の夫、小原久雄と私は、ユバさんの力強い握手に迎えられました。ユバさんとは、私達を呼び寄せてくださった弓場農場の場主、弓場勇さんのことです。
(1961年移住)

農場での出会い

 ヤマ(弓場農場の通称)に着いたのはクリスマスを迎える十日前だった。毎年行われているクリスマスをお祝いするための合唱、劇などの練習が行われていた。踊りも練習していると聞いて、通りかかった少女に「あなたたち、クリスマスにどんな踊りをするの」とたずねてみた。年の頃十五、六才の元気のいいその子は「ヤッコはアニトラの踊りをケイコと二人で踊るンよ」「キヨミとアットとセツは三人の踊りを踊るン」と答えてくれた。そばで聞いていたユバさんが「明子さんはバレリーナだ。お前たちの踊りを見て貰ったらどうかな」と提案した。

バレエを踊る娘たち(1961年)  その夜夕食が終わると、少女たちはレコード・プレーヤーを抱えて私の所にやってきた。だが、踊る場所は私たちのために用意された住居の一室で、レンガを敷き詰めただけの土間のような床である。
 娘たちは、すぐに自分たちで考え、振り付けたという踊りを始めてくれた。デュエットは、グリーク作曲の「アニトラの踊り」、トリオの方は、テンポの速いリズミカルなブラジル曲を使っての踊りだった。
 つたないながらそれぞれの曲の感じをよく捉えて作り踊っていたが、トリオの方は曲が余ってしまい、最後のポーズが決まらなくなってしまった。三人は部屋の外に出て何か話し合っていたが、もう一度やってみると言って再び踊り出した。前回よりテンポを速くして踊っているようだったが、今度も終わりのポーズを決めた後、中途半端に曲が余ってしまい踊り子たちは困っていた。
 私は、「どうしていつも同じように終わらないのかちょっと一緒に考えてみましょうか」「とても簡単なことなのだけど、それには少し振りが変わるところがあるけれど、いいかしら。私が手伝いしても」と聞いてみた。娘たちの「手伝って!」との答えに、私はその振り付けを初めから整理していった。
 数カ所、振りにメリハリを加え、リズムは常に崩さず、毎回同じテンポで踊ることを教えた結果、何度踊っても同じところで終われるようになり、娘たちは感心しつつも大喜びだった。

砂上のバレエ・レッスン  次の日から、彼女たちは夕食後毎日私の所に熱心に通いだした。踊り方の要領を私がやってみせると、瞬きもせず食い入るように見入っている。彼女たちはまだ一度も本当のバレエを見たことがないと言う。時々ヤマで上映する、美空ひばりや江利チエミたちが踊る映画が彼女たちのお手本のようだった。
 ヤマには本格的な三十五ミリのシネマを映すマキナ(機械)が二台あって、コジンニャ(食堂)に幕を張ってみんなが集まってシネマを見るのだと、話してくれた。佐田啓二、鶴田浩二、中村錦之助等が活躍していた日本映画全盛当時の映画をほとんど見ているのだ。そして、その映画の挿入歌も覚えているという。何回も繰り返し見るわけではない。一度聴いただけで覚えてしまうなんてすごいなあと感心すると、「簡単だよ」とその秘訣を教えてくれた。
 映画の中で歌が始まると、「これ覚えよう!」の合図が伝達され、A子が始めの四小節をしっかり覚え、B子は次の四小節、C子がその次をと、いつも分担が決まっている数人が覚え、次の日、学校へ行く道々それぞれが覚えたところを歌いながら歩いていくので、帰ってくる頃には、始めから終わりまで歌うことが出来るようになっていると言うのだ。こんな彼女たちの楽しい話を聞きながら、毎晩遅くまで踊りの練習を続けていった。

 ヤマにはこの娘たちの下にまだ二十人近い子供たちがいて、男の子も女の子も皆パンツ一つで一日中走り回って遊んでいたが、クリスマスに何もしないと聞いて、この子たちのために「楽しいクリスマス」という出し物を作ることにした。
 踊りなど見たこともない子供達なので簡単な振りで構成していった。しかし、振り付けし練習する場所などどこにもなく、大食堂前の広場を使うことにした。暑さなどものともしない子供たちは、真夏の炎天下の砂の上で元気いっぱいに手を伸ばし、足を挙げ飛び跳ねて踊りを覚えていった。

劇場が建つ?

劇場建設  ヤマのクリスマスには、この日を楽しみに待っている村の人たちが大勢出かけて来るというのに、劇や踊りは一体どこでやるのだろう。
 ヤマに着いて三日目位だったろうか。朝の散歩に出かけた私は、食堂前の広場の先にあったコーヒー畑の樹が抜かれ、きれいに整地されて、所々に直径五十センチはあろう大木の柱が立てられているのを見た。ここに舞台を建てるのだという。
「いつもは仮設舞台を作り、客席はトラックのシートを張って椅子を並べるだけだが、今年は明子さんたちを迎えてはりきったユバさんが、客席に屋根を作ろうと言い出したんです」
と笑い顔に可愛い笑窪のおじいさんは柱を立てながら話してくれた。
 間口十メートルはあるだろう。それに三十メートル近い屋根を乗せるのだそうだ。クリスマスまで後一週間。それまでに出来るのだろうか。衣装も作らなければならない。その生地はどうするのだろう。

 その頃、ヤマの人たちは誰も彼もみな白い木綿地のシャツや服を着ていた。子供たちの、胸に汽車や自動車の縫い取りがしてあるロンパースも、学校へ行く女の子たちが着ている袖口や衿に黒い線の入ったワンピースも白い木綿地だった。また、肌寒い時に羽織るジャンパーや上着も重ねて厚くしてはあるが、やっぱり白木綿で作られていた。色物を着ている人など一人もいない。
 ブラジルは暑いから白くて汗の吸い取りの良い木綿を使っているのだろうか。衣装もあの布地で作るのだろうか。あの布地を使うことになれば染めなくてはならないけれど、染め粉は簡単に手にはいるのだろうか、白木綿の生地は何処で買ってくるのだろう。ヤマに着いたばかりの私は全く様子が分からず、次から次へと疑問が湧いてくる。
 翌日、「みなさんが着てらっしゃる服の布地は何処で買ってらっしゃるのですか。いつでも手に入れることが出来るのですか」とユバさんの奥様のハマちゃんに尋ねてみた。
「いつでも手に入りますよ。ちょっとこっちへいらっしゃいな」と私を鶏の餌小屋に案内した。そして、「はい、これよ。いくらでも、いつでも手に入るでしょう」と笑いながら仰った。そこには木綿の袋が山と積まれていた。
 当時、養鶏場だった弓場農場に運ばれてくる餌は全て木綿の袋に入っていて、毎日何十枚という使用済みの袋が小屋に積み上げられていくのである。
「袋をほどいて洗濯してから石鹸液で煮て、お日様に晒すと真っ白になるのよ」「綴じてある太い木綿糸も一緒に晒してためておくと、鉤針編みの材料になるの」と教えて下さった。食堂に置いてあるピアノの見事なレース・カバーもこの糸で編んだとのことだった。

 私はユバ夫人の話を聞きながら、その山のように積み上げられた餌袋で衣装を作ることを考えていた。染め粉も手に入るという。しかし、ブラジルの奥地とは言え、近くには町もある。そこへ行けば衣装に使う布くらいは手に入れることも出来たであろうに、なぜか私はその時、そんなことを思いつきもしなかった。
 真っ白な餌袋で作られたアニトラの衣装は、真っ赤に染めて要所々々に金紙でアクセントをつけた。子供たちの衣装は男の子も女の子も直線裁ちの、色とりどりに染め上げた袖無しシャツにショートパンツ。それに同じ色の三角帽子を被り、共布で作った足首までのブーツ。こうして衣装は次々に出来上がっていく。

瓦を並べる  「間に合うだろうか」と心配していた舞台作りの方も 突貫工事で進行していた。棟上げも既に終わり、今日はいよいよ瓦を葺き始めるという。
 瓦を乗せるのは男の子たちだ。梁に沿って下から上へと五、六人がずらっと一列に並んでいる。年長の子が下から放り投げられる瓦を受け止め、次の子に渡す。その子が又次の子へと、瓦はリレーで上に運ばれていく。きちんと積み置かれた瓦を、今度は大人たちが注意深く、しかも手早く並べていく。見事なチームワークだ。

 やがて、客席の向こうに間口十メートル、奥行き五メートルの舞台らしきものも出来上がった。それは高さ七十センチの土台の上に板を並べ、所々釘で打ってあるだけのもで、飛ぶとがたがたと音がした。袖もなければ楽屋もなく、後には壁もない。およそ舞台と言えるようなものではなかったが、夫はどこからかセメント袋を探し出して来てそれを張り合わせ、膠で溶いた絵の具で色を付けて、ホリゾント幕の代用とした。勿論、照明器具などあるはずもなく、舞台の上には家庭用の百ワットや百五十ワットの裸電球がぶら下げてあった。
 その頃、農場はまだジーゼル・エンジンの自家発電であり、終日電気を起こすその音は、農場の何処にいても聞こえていた。子供達はそれを「電気の音」と呼んでいた。  ともかくも、こうして小さな子供達まで総動員して大急ぎで建てたユバ劇場は、とうとうクリスマスまでに何とか出来上がった。

クリスマス当日

初舞台の衣装を着けて  いよいよクリスマスの日がやってきた。開演は八時の予定である。夕方の六時頃からぼつぼつとお客様は集まり始めた。五、六百人分用意した客席は開演予定時間にほぼ満員となり、出演者も「スタンバイ・OK!」。始まるのを、今か今かと待っている。
 ところが、舞台の上の配線がまだ終わらず電気がつかない。担当している青年は汗を流しながら、あっちへ走りこっちへ走りと慌ただしく駆け回っている。開演時間はとうに過ぎているのに、お客様は文句も言わずに待っていて下さる。一時間近くも遅れているのだ、私は気が気ではなかった。夫と私は工事を続けている青年の手元を懐中電灯で照らしながら、一刻も早く電気が付くことを祈っていた。
 それから数分後、ようやく待ちに待った舞台の電源スイッチが入れられた。時計の針は九時ジャストを指していた。
 「ご苦労様!」と声をかけると、青年は汗に濡れたシャツを脱ぎながら「ようやっと終わったね」とニッコリ笑った。今でもこの時のことを思い出すと、ガッチリと逞しい汗に濡れた青年の背中が目に浮かぶ。

 私はこの日、娘たちにぜひ踊って欲しいと言われ、古いレコードから曲を見つけて用意していた。どんな曲で、どんな振り付けをしたのか記憶にないのだが、その日、忘れえぬ出来事があった。

感動のハプニング

 プログラムも終わりに近づき、いよいよ私の出番が来た。その時、突然荒々しい風が吹き出し、大粒の雨が降り始めた。 十二月はブラジルの雨期。この時期特有のスコールがやってきたのだ。夫の作った剥き出しの紙のホリゾント幕に、雨は容赦なく降り注いでいる。
「大丈夫だろうか」、私は幕の後を覗いてみた。
 何とそこには、三、四人のおじさんが椅子を台にして、その上で背伸びをしながら糊の剥がれ始めた幕を必死に押さえていた。既に全身びしょ濡れだった。見上げている私に、「大丈夫ですよ! こうやって押さえていれば踊る間は大丈夫!」と言ってくれた。感激だった。しかし、四分足らずの短い踊りではあるけれど、このまま濡れ続ければ、やがて糊ははがれ、ずるずると破け始めるだろう。
「ありがとうございます! 曲が始まるまで押さえていて下さい。踊りが始まったら手を離して下さって結構です」
「手を離したら破れちゃうよ!」
「破れてもいいんです!」と答えて、上手から登場するはずの私は紙幕の後を走り、舞台中央の辺りで待機した。

 曲が始まった。次の瞬間、私は勢いよくホリゾントを突き破って舞台に躍り出た。まるで、始めから演出されていたかのように、セメント紙のホリゾントは踊りに合わせて少しずつはがれ落ちていった。

 一九六一年十二月二十五日。思わぬハプニングの中、私は、ユバの舞台を初めて踏んだのであった。


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