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日系ブラジル人として失ってはならないもの

 日系人として失ってはならないもの、それは日本文化との絆である。
ブラジルは多くの国からの移住者で構成される多文化社会であるから、それぞれの母国文化を背負って国づくりに参加することが求められている。
母国文化と切り離されることはブラジル人としての役割が果たせないことを意味するからである。
それは一世の老人たちが祖国を懐かしむ郷愁とは全く別の問題である。

 日系人はとかく西欧系移住者と比較され、アイデンティティの喪失を指摘されがちだが、実は日本という国はODA大国でありながら、移住者への文化的支援という点では、西欧諸国に比べて桁外れに貧しいという背景がある。と同時に日本人の移住同胞への無関心さがあげられる。

 母国文化を継承するためには単なる記録や言語だけでなく、文化を継承する地域社会が必要である。
日系移住地のほとんどが姿を消した現在、アリアンサ移住地は日本文化を継承する最後の移住地と言われている。

 アリアンサには三移住地があり、第一アリアンサは信濃海外協会の開設、第二アリアンサは鳥取海外協会と信濃海外協会の共同開設、第三アリアンサは富山海外移民協会と信濃海外協会の共同開設である。
鳥取、富山からはそれぞれ同県人のみが送り出されているが、信濃は入植者名簿を見ればわかるように、開設当初から第一、第二、第三とも全国からの移住者を迎え入れている。
にもかかわらず、「ブラジル信濃村」と呼ばれ、排他的で自己中心的な移住地として日本の歴史書に明記されていいものだろうか。
現存するアリアンサ移住地の調査もされず、また、長野県立歴史館に所蔵されているはずの入植者名簿さえ無視され、長野県人を満蒙移住という悲劇に追いやった「満州信濃村構想」の原点の村とされている。

 第一アリアンサ移住地は戦前から移住地の歴史を重視し、本格的な移住史「創設十年」(一九三六年)、「創設二十五年」(一九四〇年)、「創設四十年」(一九五五年)が残されている。だが、これらの資料にはアリアンサをブラジル信濃村とする根拠は見いだせない。

 現在第一アリアンサでは創立八〇年を迎える二〇〇四年に向けて「第一アリアンサ八〇年史」編纂の準備が進められている。

北原地価造・輪湖俊午郎記念館  写真は一九九九年四月、アリアンサの文化財「北原地価造・輪湖俊午郎記念館」が完成したときのものである。
背後の建物がアリアンサ移住地理事であった北原地価造邸を復元したもので、ブラジルでは珍しい一九二九年建造の木造建築でで日本人大工によって築造された。
北原邸の骨格を基本に、アリアンサ移住地の設計者として知られる輪湖俊午郎邸(一九二八年建造)の材料で補完している。
三世、四世の時代になり、後世に村の成り立ちを残そうとする事業の一つである。

ユバ・バレエ団 アリアンサ移住地といえば、ブラジル人の間ではユバ・バレエ団のある村として知られている。
 コムニダーデ・ユバ(ユバ協同農場)のバレエ活動は農民による現代バレエ団として広く知られ、すでに四〇年近い歴史をもっている。
一九九二年の地球環境サミットにも日本NGOを支援する国際イベントに出演するなど、ブラジル日系社会のシンボルになっている。ユバ農場はよく日本の「新しき村」と比較されるが、アリアンサは戦前からこうした農場を育てる風土を持つ移住地として知られている。


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