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弓場農場に入植して

記・矢崎正勝

移民船での旅立ち

 私が、日本を出発したのは、一九六三年の八月でした。うだるように暑い夏の真っ盛り。まるで、映画の一シーのような出航の場面。甲板から投げられた、無数の五色のテープの中に鳴り響く銅鑼の音と、汽笛の音。私の周囲でハンカチを振る人々の顔は、皆涙でくしゃくしゃになっていました。やがて、奏でられ始めた蛍の光の曲に送られて、オランダの移民船、テゲルベルグ号はゆっくりと岸壁を離れてゆきました。
 初めての海外旅行、しかも、農業移民資格という思いも寄らなかった形での旅立ちでしたが、若かった私には、ただ未知への興味の方が強く、祖国との別れなどと言う感傷や、家族との別れに涙する、などと言うこともありませんでした。(後に、呼び寄せてくださった弓場さん宛の母の手紙に、息子はとうとう涙を見せませんでしたが、感慨無量でした。と記されていましたが。)
 船底にビッシリと並べられた、蚕棚と称する粗末な二段ベッド。子供達の泣き声、不安と緊張の面もちで荷物を片づけているお年寄り達。呆然と、丸窓から離れ行く祖国の地を見続けている者達。その薄暗い船底には、未知への好奇心より、不安の気持ちの方がより濃く溢れていました。
 沖縄、台湾、東南アジアや南ア連邦の諸国、十数カ所の寄港地を経て、ブラジルのサントス港に着いたのは、十月の初旬でした。出迎えに来て下さっていた、佐藤啓さんと弓場さんの弟さんの、繁牧師の車に乗り込み、一路、弓場農場へと向かいました。

不思議な思い

 広大な大地の中に延々と続く、まっすぐな道路。やがて、日本からの、二万と一千キロの長い長い旅も終わり、無事に弓場農場に着いたのでした。
 車から降りると、目の前の、大きな窓枠にカーテンだけで、ガラスも入っていないような木造建ての大食堂に通され、弓場さんとその仲間の人達に紹介されました。
 その時の印象は、何か不思議なところだなと言う思いと、始めて訪れた所にもかかわらず、どこか知っているような、少し懐かしさも感じられることでした。
 一九六三年とは、東京オリンピックの前年で、高度成長を迎えつつあった東京での賑やかな暮らしの中から、突然、ブラジルの山奥の農場に移ったのですから、その極端な生活様式の違いに、もっと驚くというか、隔たりを感じてもいいのでしたが、窓ガラスのない食堂も、寝泊まりした隙間だらけの板張りの宿舎にも、一汁一菜のような粗末な食事にも全く違和感はなく、何の抵抗もありませんでした。これは後に振り返って不思議に感じたことでした。
 しかし、日本での私の生活環境が、戦後の疎開先であった山梨における、父の実家での生活以後、物心ついてからは、父母の社会福祉と言う仕事の関係上、孤児院だとか母子寮だとか保育園などの職員用の長屋住まいばかりでしたから、いつも共同生活みたいなもので、そう言う雰囲気に馴染んでいたせいであったからだと納得出来ました。

 その頃のユバは、創設者の弓場勇さんを始め、補佐役の浜村利一、望月数数太郎、弓場稔、佐藤啓、今本武士、滝本克夫、弓場基さんと言うような創設当初からのそうそうたる人達に加えて、小原久雄、明子夫妻他、日本から来た青年達、ユバ生まれの若者や子供達で、総勢百二十名近い大所帯でした。
 当時のユバは、養鶏が主でしたが、経営不振のため皆日雇いに出ていました。私達もかり出され、原始林伐採のため、火を入れて真っ黒になった焼き畑に横たわっている大木を、炎天下に大鋸で切り刻んでいく仕事や、数万羽の鶏の練り餌を、何トンも入るような大きな飼い葉桶で混ぜる仕事など、何の訓練も無しに突然行ったので、都会育ちの私達には、本当に死ぬかと思うほどきつい事でした。
 そのせいもあって、庭に自生していた酢蜜柑を、一緒に来ていた青年と二人で頻繁にレモン水を作って飲み、殆ど丸坊主にしてしまいました。
 「ちゃんとしたレモンがあるのに、何であんなもん飲むんだろうね。」と皆に大笑いされたのですが、どんなに酸っぱくても、たわわに熟れて庭先になっていると言うだけで感激でしたし、その刺激的な酸っぱさが、また、たまらなくおいしかったのです。

バレエとのかかわり始め

1964年頃のバレエ・レッスン風景 ある日の夕食後、およそここの雰囲気に似つかわしくない、ジャズのような音楽が聞こえて来ました。何があるのかと、聞こえてくる建物をのぞきに行くと、そこは、半野外の大きな劇場で、これ又農場には似つかわしくない、肌もあらわな、当時としてはモダンな衣装の娘達が、踊りの稽古をしている最中でした。
 音に興味もあったので、舞台袖に上がってみると、古いレコードプレーヤーが鳴っているのです。
 しかし、迂闊に側へ歩み寄ったため、振動で針が浮き上がって音が飛んでしまい、せっかく夢中で練習しているところを中断させてしまって、大いに恐縮してしまいました。  更に数日後、今度は充分に気をつけながら入っていくと、レコードではなく、オープン・テープが回っていました。これもまた、当時としてもかなり古いものでしたが、そのせいか時々音がとぎれるのです。しばらくして音楽が終わり、係りの人が巻き戻して再生を始めると、又とぎれるのです。しかも同じところでとぎれるので、気になって側へ行ってテープを見ていると、磁気面が時々キラッと光り、その時に音が消えるのです。やはり切れた箇所を、磁気面の方にテープを貼って繋いでいたのです。
 係りの人に、そのことをアドバイスすると、今度は、「実はレコードを掃除すると、溝が潰れるのだが。」と言うのです。何のことだかよく解らず、もう一度聞いてみると、アルコールで表面を拭いているというのです。それでは当然潰れるわけで、(当時のレコードの材質はそんなもんでした。)これも、その掃除の仕方を教えてあげると、「君はよく知ってるな、任せるからやってくれないか。」とその場を預けられてしまったのです。  こんなことが切っ掛けで、バレエの音響を担当するようになってしまいました。

 もっとも、音響と言っても、その頃の器機は、真空管の小さなアンプ一台と、ベニヤ張りのスピーカ・ボックス一つだけで、ミキサーもなく本当に簡素なものでした。(それから二年後に、初め行ったサンパウロ公演の時も、その後の地方公演も、二、三年はこんな装置のみで鳴らしていたのですから、今考えると信じられない思いです。)
 それから、稽古に参加するたびに、レコードの針を跳ばないようにするため、ゴムを敷いてみたり、バネを置いてみたりと、色々工夫をしましたが、数十人からの踊り子が跳んだりはねたりするのですから、到底そのショックは抜けず、時には本番中に、音飛びしてしまうこともあって、とうとう一台のレコード・プレーヤーのために、舞台袖の床を抜いて柱を立て、その上に載せて舞台床とは全く隔離して音飛びを解決したことでした。

アフレコならぬ、ビフォアー・レコーディング

1985年上演の三度目の「二十日鼠と人間」飯場の場面  翌年、一九六四年のクリスマス、演劇指導や、照明、装置などを担当していた、庄さんが、今年の芝居は、スタインベックの「二十日鼠と人間」をやることにしているんだが、「君、カーリーの役で出てくれないか。」と、とんでもないことを言うのです。
 私は、子供の頃から上がり性の引っ込み思案で、人前で何かするなどと言うことは全く苦手でしたので即座に断りました。
しかし、彼はしつこく、どんなに断っても、ああだから、こうだからと毎日口説きに来るのです。最後には、「この話は、西部劇みたいなモンなんだ。だから、音楽や時代考証などもやってほしいし、」と言うのです。私は、カントリー・ミュージックが大好きでしたから、それを知っての口説き文句でしたが、とうとう落とされてしまいました。
 しかし、それからが大変でした。庄さんは、大体みんなが台詞を覚えてしまった頃に、「今回は、台詞を始めに録音して、それに合わせて芝居をする。」と、また、とんでもないことを言い出しました。
 私は、映画のようなアフレコならいざ知らず、自分の台詞に合わせて動くなんて冗談じゃないと思ったので、かなり強行に反対したのですが、彼は、我々素人の声では台詞が通らないからダメなんだ。特にこの芝居は、台詞が非常に大切だから、聞こえなくてはやっても意味がないんだ。と、主張して譲らないのです。
 確かに、その頃は集音マイクなどもなく、しかも、当日来訪する観客は、テレビや他の娯楽もあまりない折から、ユバのクリスマスを楽しみにして見に来るので、1000名を越えると言うのです。もしそれが本当ならば、やはり後の方は殆ど聞こえないでしょう。やむを得ず、彼の主張を通して、アフレコならぬ、ビフォアー・レコーディングをすることになったのです。

いよいよ、スタート!

 スタジオなんて、もちろんあるはずもないので、真夜中、皆が寝静まってからの録音開始でした。
 舞台の上では、歩くたびに床の音がするので、砂地の客席(テアトロ・ユバの客席は今でも砂地です)に様々セットし、と言っても、マイク一本、テープ・レコーダー一台だけなのですが、それでも何度かテストをして、それぞれの役者の音量に合わせて大体の位置を決め、いよいよテープスタートです。

 始めての試みなので、こちらは、イヤホーンを片耳に息をのみつつ、祈るような思いで役者の口元を見つめ、役者も、自分の番が来ると、極力音を立てないようにそっと立ち上がり、忍び足で前の役者の後に待機するという、立ち会っている者全てが、まるでスローモーションで動いているようでした。
 「よし、調子よくいってる」と思うと、アア、犬が鳴く。「今度はいけるかな」と思っていると、鶏が鳴く。「よしよし、今度こそもう少しで」と思っている中にいつの間にか東の空が白み始め、雀が鳴き出し、トラクターが動き出して全てが振り出しに戻ってしまいます。皆、それまでの緊張感が砕けて、グッタリとしてしまいました。

 録音機は一台しかないのでダビング編集は勿論出来ませんでしたし、テープも貴重なものでしたから、不要なところを切って繋ぎ合わせるなんていうことも出来ませんでした。ですから、また次の日の夜中にと、一幕、一幕、二時間以上の芝居を仕上げていくのに一週間近くかかってしまいました。
(あの時の情景をフィルムに収めることが出来ていたら、チョットした喜劇だったかも知れません。)

舞台一杯の大セット

 この芝居のセットが、また大変でした。庄さんが、デザインして、コンテを描き、それを、キンちゃん(箕輪勤助)が形にしていく。この人は、(スリムという牧童頭の役で出演もした。)一九三八年にユバ入りして、現在九三才ですが、百姓、鶏飼い、大工と何でもこなし、読書を好み、俳句をたしなみ、ユバの理想に共鳴して黙々と生きてきた人です。それはそれは真面目で、作ってくれと言われたものは、「出来ない。」と言ったことがない人でした。

 そこで、庄さんの描いた図面を見ながら、材料をきざんでその通りに仕上げていく。やがて、庄さんの描き割りも終わって、仕込みの稽古が始まります。
 第四幕「納屋の場面」。キンちゃんの指揮の下、全員がかかって組み立てていく。そこに小道具を配置して、蜘蛛の巣をかけ、照明が入る。それはそれは、みごとなセットでした。巾十メートルの舞台一杯の中二階付きの納屋。しかし、殆ど本物なのです。何と組み立てるのに四十五分もかかってしまい、これでは、その場面の上演時間より長くなってしまうので、とても芝居にはならないのです。
 でも、折角のキンちゃんの力作でもあり、また、作り直している時間もないので、出演者もスタッフも全員がセットを一つずつ分担して出すことに決め、くり返しくり返しセッティング練習をして、結局、本番前には八分くらいで仕上げることが出来るようになり、何とか芝居の流れを切断せずにセッティング出来るようになったのです。

 肝心の芝居の方はと言えば、やはり録音に合わせての動きはとてもぎこちなく、とても上出来とは言えませんでしたが、従来の描き割り幕の背景画とはとは違って、本格的な舞台セットを使っての芝居だっただけに、その雰囲気は素晴らしく、役者も乗せられ、本当に訪れた1000名を越える観客も大満足で、盛大な拍手の中に無事に終了したのでした。

有から無の難しさ

1947年戦後初めての第一アリアンサ入植祭劇「コミック・オペラ」  アリアンサ移住地と言うところは、ユバのみならず、昔からこういった文化活動が大変盛んなところでした。最盛期には、入植者が1000家族と言われたほどの大移住地で、住人達の本来の職業も、牧師、神主、教師、博士と多種多様なものでした。
 その入植祭には、各地区(一〜十区)が芝居や踊りなどを作り、時には明け方までかかって上演し合うという大変なものだったそうです。

 しかし、やはり奥地の開拓村であっただけに、材料や機材は乏しく、全てが手作りによるものでした。麻縄をほぐして作ったカツラだとか、鶏の餌袋を染めて作った衣装だとか、或いは、塩水抵抗を利用して作った調光器だとか、皆がそれぞれの知恵を出し合って作ったものばかりでした。また、時には、トラクターのヘッドライトをスポット代わりに使ったこともあったようでした。

 ユバの舞台において、これらのことは、基本的には変わっておらず、素材こそ変わっては来ましたが、現在も殆ど手作りで行っています。
 何もないところから作り出していくことは、一見大変なことのように思えますが、無いからこそ、どんなものでも無理だとは思わず作ることが出来るのです。現在のように、資金さえあれば、殆どどんなものでも入手できるような時代の方が、返って作り出すことは難しく、生活面では、私達も、つい買った方が安いから、と言う安易な方向へ流れていってしまいそうになるのです。しかし、物の溢れる時代だからこそ、本当に必要なもののみを作って行く、と言うことが大切なのではないでしょうか。


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