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山中三郎さん 山中三郎さん(やまなか・さぶろう)

 バストス博物館長。
 一九〇九(明治四二)年四月、北海道常呂郡の生まれ。一九二四(大正一三)年三月、家族とともにブラジルに渡り、サンパウロ州カンブイ耕地に就労。
 一九二九(昭和四)年、ブラジル拓植組合運輸部に就職。一九三〇年、バストス運輸組合を結成し会長。一九三六(昭和一一)年から農業に専念する。
 二〇〇〇年九月二九日バストス市で没。享年九一歳。

 バルパ街道とバストス建設
 わたしは十九歳の時、カフェランジャで畑中(仙次郎・ブラ拓創立期のスタッフ)さんにバストスに植民地ができるから来ないかと言われ、バストスに移った。わたしはすぐブラ拓のカミヨン(トラック)の運転手として働いた。当時はフォードの一トン半しか積めない小さなものだが、材木やコンクリートバラス、屋根瓦を運ぶために、毎日五メートル幅のどろ道をバルパまで通ったものだ。バルパまでは三六キロくらいの道のりだ。  バストスはパウリスタ線のクワタ駅から四五キロくらいの場所にあるのだが、移住地の建設が始まったときにはすでにバルパ街道ができていたから、三六キロ地点から九キロの道路つくっただけで済んだ。この道路はレトニア人(バルト三国のラトビア人)が女子どもまで動員してつくった。この道路がなかったらバストスの建設はそう簡単じゃなかっただろう。
 バルパというのはレトニア人の移住地で、一九二四年に北欧から移住してきた人たちが拓いたところだ。バルパの街の向こうにパルマという協同農場があった。これは移住者の中に戦争未亡人や孤児が四〇〇人ほどいて、この人たちのためにつくった協同農場だが、かなり大規模なもので、製材所も印刷所もあった。バストスの養鶏や養豚。綿の栽培はみんなこのパルマ農場で教わったものだ。
 バルパにも製材所はあったが、パルマ農場の方が組織的で大規模だった。製材部の主任の奥さんの兄弟が樺太にいたという話が出て、わたしは北海道の常呂の出身だから、それで親しくなり、可愛がられた。
 昭和五年頃からはパルマの材木は川を流して、それがリオ・デ・ペイシェ河に出ると、バルパ街道で拾い上げてバストスまで運べたので楽になった。

 医療もバルパで
 昭和四年の五月ころ、バルパまでコンクリート用のバラスを取りに行き、一週間合宿したことがある。その頃は日本から単身の青年がかなり来ていたが、わたしの助手に広島出身の八谷(やたがい)という男がいた。ある朝、、一緒に働いていた男がピストルの手入れをしていて、誤って引き金を引いてしまった。それが新聞を読んでいた八谷の腹部を貫通させた。ブラジルではピストルが簡単に手に入るので、日本から来た若者はピストルを買って山の中で試射するのを楽しみにしていたのだ。支配人の畑中さんと山中さんがすぐバルパに飛んで来た。バルパには病院があって、外国移民も親切に診てくれた。第一次大戦に参加したという軍医上がりの医者は「膀胱を貫通している。自分の経験ではまず助からない」と言った。サンパウロまで連れて行くのは時間的に無理があり、また警察にとがめられる危険があった。八谷はうわごとばかり言って三日目に死んだ。
 バストスの病院は昭和五年の六月からはじまって、本格的に開業するまでには二年ばかりかかったから、それまでは日本人はバルパの病院にかからなければならなかった。トゥッパン(この地方の現在の中心都市)に病院ができたのはその後のことだ。初期のバストス移民は墓もバルパに葬った。

一九九七年九月四日、バストス市の自宅で

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