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アリアンサをたずねて 6

 馬場さんをたずねる

開拓当時のおもむきを残す馬場さんのお宅で・左から馬場秀雄さん、和美さん、永田久さん、粂川吉見  坂本さんの農場見学を終えると、今度は再びアリアンサ移住地に戻り、第三アリアンサの馬場秀雄さんのお宅を訪ねた。永田久さんご家族も昔、この近くに住んでいたそうで、アリアンサ移住地の青年達の良き指導者だったに違いない。奥さんは、心のこもった夕食を準備して待っていてくださった。とろろごはん、魚、サラダ、そしてピンガ、等、等。
 馬場さんご夫妻は、入植当時の面影を残す古い住居に今も住んでいらっしゃる。当時、手で製材した事がわかるような不揃いの、しかし人間味のある羽目板が壁に打ち付けられているし、柱は手斧で刻んだでこぼこがそのまま残っている。今はそのような家は数少なくなったため、歴史的にも貴重な存在で、壊したくても壊せないのだとおっしゃっていた。
 ご主人の馬場秀雄さんは福島県の出身で、一九二八(昭和三)年に「日本力行会南米農業練習所」に入植し、その後アリアンサ移住地の苦難の歴史を経て第三アリアンサに移り、奥さんの和美さんと共に理想の村造りに頑張ってこられた方である。九十歳になられ、少し耳が遠くなったとおっしゃりながら、「出船」や「花」を−緒に歌って嬉しそうだった。そして、南十字星はどれですか、と私が聞くと、見えにくくなった星空を懸命に探してくださった。結局見つからなかったけれど、ご主人の暖かい心使いが私に南十字星を見せてくれたように思えた。
 奥さんの和美さんは、長い間、日曜学校で子どもたちの指導をされていたというが、八十歳とは思えないくらいお若くて優しそうで、しっかりした方である。一九三〇(昭和五)年、十一歳の時、体が弱かった和美さんのため、温暖なブラジルなら良かろうと、ご両親が連れてらしたのだそうである。日本ではエリート社員だつたお父さんは会社を辞めてブラジルへ来たものの、農業体験のない一家だったので、入植後いろいろ苦労されたようで、それらの体験を楽しそうに話してくださった。
 また、馬場さんの家に、白髪の品の良い老婦人である森さんが訪ねてこられた。八十五歳になるという森さんは一九二八(昭和三)年、十三歳の時に、あのチエテ河のオリエンテ橋の建設のために来伯したお父さんの木村貫一郎工学士と共に、第一アリアンサに入植したのだそうだ。また、木村貫一郎(圭石)は、俳人・高浜虚子の弟子としてアリアンサに俳句を広め、後から入植した佐藤念腹と共に、ブラジル俳句界の生みの親でもあったという。
 食事はにぎやかで楽しく、馬場さんご夫妻と森さんから、入植当時の思い出話など、貴重なお話しもうかがいつつ、いつしか夜が更けていった。別れを惜しみながら、私達は再び今宵の宿となる弓場農場へと戻った。

 次の日の朝、たった二日間の滞在なのに、もうすっかり親しみを持ってしまった弓場農場に別れを告げる時が来た。弓場さん、矢崎さん、小原さん、下桑谷さん等、みなさんに見送っていただき、再び永田さんの車に乗り込んだ。アリアンサ移住地に弓場農場がある限り、移住地創設者達の「想い」は消えることはない、そう実感しながら、早朝の空気の中を一路サンパウロへ向った。


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