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アリアンサ移住地史今後の課題(2)

矢崎正勝木村快矢崎正勝(やざき・まさかつ)※写真左
 一九四三年、植民地時代の台湾台北市の生まれ。一九四六年、日本へ引き揚げ後、東京都小金井市で少年時代を送る。
 ユバに入植した同郷の女性が、ユバはあなたに向いている所だと誘ってくれたことから、一九六三年、単身ユバ農場入りした。
 その後両親も同農場へ移住したが、一九九八年に両親ともユバ農場で生涯を閉じている。
 ユバ・バレエの音楽の作編曲者、北原・輪湖記念館の移築監督などをつとめる。現在ユバ農場広報部長、アリアンサ史研究会事務局長、アリアンサ八〇年史編纂委員会副会長。NPO現代座社員。

矢崎 帰国は十一年ぶりです。文明(物質文化)はどんどん変わっているし、日本人はますます忙しそうに歩いているけど、基本的な生活様式はほとんど変わってないですね。
 今回はアリアンサ八〇年史の相談で帰国したわけですが、アリアンサの歴史では日本との関係は抜きにできないんで、アリアンサ移住地の生みの親である日本力行会と長野県に相談に行ってきました。力行会の方は何らかの形で協力してくれそうです。長野県の方は一応申し入れだけしてきました。知事が約束されたアリアンサ史の再検討は、まだ引き受けてくれる学者が見つからないそうです。

木村 学者がいないことは最初からわかってるのだから、それはできないという意味でしょう。もう移住百周年(二〇〇八年)までには間に合わないね。まあ知事が公の場で再検討を約束してくれただけでもよかったと考えるしかないね。

矢崎 木村快さんの立場からみて、アリアンサ史の課題はどんなことだと思いますか。

木村 アリアンサ史はこれまで、「創設十年」にはじまって、戦後の「創設二十五年」、「創設四十五年」、「第二アリアンサ四十五年史」「第三アリアンサ五十年史」、「第三アリアンサ六十年史写真集」と、おそらく日本人移住地でこれだけ移住地史をつくったところはほかにはないよね。

矢崎 たしかに一世の時代には文筆家が揃っていましたからね。ただ、「創設十年」は第一、第二、第三全部をあつかった総合的な移住地史だったけど、戦後は第一、第二、第三とそれぞれの立場でやってきたわけで、これを改めて統一してやるというのは大変なことです。しかも、創設期のことを知っている人はいなくなりましたからね。

木村 最初の「創設十年」は一九三七(昭和十二)年に、信濃移住組合の経営権がブラジル拓殖組合に移管されることが決まってから出版されたわけで、当然、あの時代としては書きたくても書けなかったことがたくさんあるよね。

矢崎 率直な意見を聞かせてください。

木村 まず、アリアンサ移住地は誰がどのような意図で開設したのかがはっきり書かれていない。古い人ならみな知っているように、一九二〇(大正九)年に永田稠日本力行会長がイグアッペ植民地を訪問したとき、輪湖俊午郎、北原地価造と話し合って、移住者自身による新しい移住地をつくりたいと言うことからはじまってるわけですよね。

矢崎 そうですね。

木村 ところが「創設十年」ではいきなり一九二三(大正十二)年に信濃海外協会第二代総裁の本間利雄長野県知事が「移住地開設宣言」を発したことから始まってる。だからアリアンサは長野県、つまり役所がつくった移住地と誤解されてきたわけでしょう。信濃海外協会は県知事が総裁で長野県の協力がなかったら実現できなかったことは事実だけど、県の仕事だったわけじゃない。民間の移住運動として誕生した唯一の移住地です。そこがあいまいなため、それから七〇年もたって、山川出版社や大月書店からアリアンサは長野県による満州移住の始まりとして誤解されてしまった。アリアンサ移住地がどうして生まれたのかという最も大切な部分がアリアンサの歴史に書かれていなかったからだと思う。歴史を書くと言うことは後の世代に正確な姿を伝えるためであって、今回の事件は大きな教訓じゃないかねえ。

矢崎 なんのために歴史を編纂するのかということはもう一度考えてみる必要がありますね。八〇年史はポルトガル語と併記して、三世、四世にもわかるようなものにしなくてはいけないんですが、それはただ何年に開設されたとか、何年にこんなことがあったとかいうことより、どんな日本人たちが、どんな思いで、なぜこの移住地をつくろうとしたのかを知ってほしいですよね。

木村 どうしてこの移住地が今でも残っているのか、日本人の目から見ると驚くべきことであって、アリアンサの誇りにしていいことだけどね。だけど、これは第三者がきちんと評価すべきことかも知れないね。

矢崎 八〇年史はブラジル移住百周年という節目もあってはじまったことだけど、たとえ百周年には間に合わなくても、これをスタートにして、ぼくらなりに調べ直して、伝えていくことが大切ですね。将来的にはDVDなどによる写真集なども作りたいと考えています。

木村 第二の問題は、アリアンサ移住地は戦前、日本側の移住機関(海外移住組合連合会、ブラジルの代理機関はブラジル拓殖組合)からふりまわされて大混乱した時期がある。それがきっかけで一緒にやってきた鳥取海外協会、富山移植民協会はブラ拓に吸収され、、最終的には信濃もブラ拓に屈服する。それで鳥取も富山も信濃も名前はすべて消えてしまった。この経過も闇のままだね。

矢崎 この問題はやっぱり専門家にやって貰わないと、ぼくらじゃ手に負えないですよね。

木村 日本政府の移住政策が引き起こした混乱なんだから、日本側の責任で研究がすすめられるべきだけど、海外移住組合法問題は日本の歴史から消されてしまってるからね。日本の歴史事典にも百科事典にも載ってない。おそらく現在の日本の研究者では扱えないと思う。

矢崎 チエテやバストスのあんな大きな移住地を日本政府が直接つくった法律でしょう。それで現在一四〇万人も日系人がいるというのに、そういうことは今の日本では歴史に値しないということなんですかねえ。

木村 国にとって都合の悪い歴史は全部消える。NHKが開局八〇周年でブラジル移民のドラマ「ハルとナツ」をつくったけど、国が積極的に移住をすすめたことも、移民達をひどい農場に送り込んだのは国策会社だったことも全く出てこない。すべて個人の運不運にされてる。

矢崎 どうすればいいんでしょうねえ。

木村 もうブラジルで言い続けるしかないね。

矢崎 何か考えておられることがありますか?

木村 日本側の移住史を書き直すことは不可能だけど、アリアンサのような移住の事実があったことをブラジル人に知ってもらう方法はないだろうか。その役に立てば輪湖俊午郎の簡単な評伝とアリアンサの村づくりの中心になったユバ農場の歴史をまとめたいと思ってるけど。

矢崎 輪湖さんも一九三四年にアリアンサを出てチエテ移住地に移られたんで、村には輪湖さんのことを知ってる人はいなくなりましたからね。

木村 あのような時代に「移住者の視点での移住地プラン」をつくったのは輪湖俊午郎だけど、なぜそのような移住地を考えたのか、それからアリアンサの土地をどのような経過で探し、購入したのか、開設までにどんな問題があったのか。これは輪湖の足跡をたどることである程度わかる。第二アリアンサ、第三アリアンサの土地購入、開設準備、移住者の受け入れもすべて輪湖と北原でやってるけど、なぜ信濃がそこまでやらなければならなかったのか。また、鳥取、富山との間でどんな問題があったのか。
 最大の問題はさっきの海外移住組合法の問題。これは日本の政府資金でブラジルに全国各県の移住地をつくろうとして一九二七(昭和二)年にできた法律だけど、なぜかアリアンサの四移住地を排除した。それを当てにしていた第一、第二、第三、熊本の四移住地が経営破綻に追い込まれる。このため、四移住地統一案の名で連合会の理事でもあった輪湖俊午郎が日本に帰国して救済活動に奔走している。しかし一九三一年、満州事変が起こる前に海外移住組合連合会の方針が突如変わって、アリアンサは突き放されてしまう。それで一九三一年から一九三四年にかけて全アリアンサが分裂・混乱するわけだ。鳥取が信濃と袂を分かったのもこのときだね。永田稠もアリアンサへ乗り込んで、輪湖とともに移住地の立て直しに奔走している。そして輪湖は一九三四年にアリアンサの理事を辞任して去ったわけだ。
 日本の移住政策史上最大の問題だけど、この顛末は日本側で消されたためか、戦後のどのブラジル移住史でも一切触れていない。ブラジル移住史の闇の部分だね。そのため、生き証人だったアリアンサの名も移住史から消えてしまった。「創設十年」は、信濃がブラ拓に吸収されたときの編纂だから、さすがにそのことは書けなかったんだと思う。

矢崎 わたしは戦後の移住なので、あまり詳しいことは知らなかったんですが、ありあんさ通信の第十一号(二〇〇二年五月発行)を読まれたサンパウロ市の浅尾瑠璃子さんからこんな手紙をいただいていたので、持ってきました。この方は第一アリアンサの浅見新蔵さんの娘さんです。

矢崎正勝様
 『ありあんさ通信』十一号ありがとうございました。移住地の複雑な成り行きを調べ、掘り起こして、読みやすくまとめられているので日本語に疎い私にも理解できるのは嬉しいことです。
 年代を見ながらアリアンサの両親が話していたことが断片的に思い出されました。何事があったのか理解できませんでしたが、父が村の会合から帰ったときの苦り切ったようす、その日は母と夜遅くまで話し合っていたこと、重苦しい空気を子供達も感じて、幼い弟は「パパイは家のことはほったらかして、よそのことばかりする。ヨー(自分)のこともかまわん。」とすねるのを母がなだめたこともありました。
 永田稠の移住地建設理念に共鳴して移住した両親は経営困難のためにブラ拓に経営移管をするのがつらかったのでしょう。アリアンサの運営問題がもめたのは一九四〇年までではなかったかと思われます。
 その後は戦争になり、当移住地も例外なく制約、制圧が加えられて人々は失望と不安の日々を過ごした時代でした。「日本の歴史書に対して抗議することは勇気のいることだが・・・・」に心打たれます。
 風化しかけた初期移民の苦労に新たな視線が向けられ、また当地に生存する子、孫の将来にも思いやりが向けられていることに感謝します。

二〇〇二年七月三〇日 浅尾瑠璃子

木村 ありがたいねえ。一九三〇年頃、アリアンサに力行会支部があって、支部長は後にブラジル短歌の権威になった長野県諏訪出身の岩波菊治だけど、謄写版印刷の短歌雑誌「椰子樹」に永田会長と一緒に歩き回るが、村人が協力的でないと悲憤慷慨している文章があった。たぶん、浅見さんは岩波さんと一緒に再建活動に走り回ってた方なんだね。サンパウロ人文研でその文章を読んだのは一九九五年か六年だったと思うけど、残念ながらその時はまだ四移住地統一問題のことがよくわかっていなかったから、何があったんだろうと思ってた。気づくのが遅かったね。あれだけ古い人を訪ね歩いたのに、気がついたときにはもうほとんどの方が亡くなられてる。

矢崎 そうですね。こちらに問題意識がないと、聞き出せないですからね。大筋のことは分かってきたから、その裏付けとして断片的なことでもいいし、人から聞いた話でもいいから、もう一度高齢の方に聞いて歩きましょう。


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