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みんなで支えるユバ・バレエ

小原あや

小原あや 一九七五年ユバ生まれ二世。 小原明子次女。現在はサンパウロ市に住んでバレエを習い、或いは教えつつ、他の同じような思想を持って活動しているプロ・バレエ団とユバ・バレエとの交流を企画実行するなど活発に活動を行っている。

子どもたちも初めて外部公演にでかけた(後列中央がアヤ)  幼いころ、毎年十二月を迎えると、父がデザインした衣装のデッサンが食堂の壁に張り出されることが、子供の私にとってもうすぐクリスマスですよ、というお知らせでした。そして色とりどりの素敵な絵を目にしながら、サンタクロースのプレゼント、たくさんのご馳走、大きなケーキ、新しい衣装に胸をときめかせていました。当時は今のようにテレビもビデオも普及していませんでしたから、漫画や雑誌がすべての情報源でした。華麗な衣装を身にまとい、トウシューズで踊るバレリーナの姿を目にするたびに、同じバレエでも、ヤマ(ユバの通称)のバレエとはぜーんぜん違うなあと不思議に思っていました。

 後に私は、十五歳から二十歳までの五年間を日本で過ごす機会に恵まれ、何もかもがユバとはまったく異なった世界に初めて触れることになります。関東国際高等学校の演劇科でミュージカルの基礎を学びながら、母の恩師である安藤哲子(のりこ)先生のユニークバレエ団に通わせていただく機会を与えられました。初めて訪れたよそのお稽古場は、とても狭いバレエ場(ヤマではお稽古場をバレエじょうと言っていました)という印象を受けたのを覚えています。また、バレエを習うために月謝というものが存在することも初めて知りました。子供のころから生活の中で皆がバレエを踊るという行為をごく自然のことと考えていた私は、ヤマ以外のところではお芝居をしたり、踊ったり、楽器を奏でたり、絵を描いたりすることが特別なこと、贅沢なことだとは知りませんでした。ですから特別に月謝を免除していただいた事のありがたさを身にしみて感じる様になったのも、恥ずかしながらもっとずっと後になってからのことでした。

 高校卒業後は劇団四季の研究所に入り、その後一年間は劇団員としてオリジナルミュージカルの舞台に出演しました。それは大変密度の濃い、厳しい競争の世界との出会いでした。何とか必死でついていきました。人のことなど気にしていられません。稽古場では常に互いに意識しあい、人を蹴落とさなければ自分が蹴落とされるといわれ、絶えず競争の日々でした。けれども、どうしても人と競い合うということにはなじめませんでした。ですからどこか居心地が悪く、緊張してばかりいて、ゆとりを持って励むことができませんでした。

 うまく踊るってなんなのだろう、そんな疑問を抱えたままユバに戻ってきました。しかし、生まれ育った我が家でありながら、あまりの環境の違いと、とぎれた時間を取り戻すことがなかなか出来ず、戸惑ってばかりいました。

 もともと根本的に、生活様式も求めているものも異なっているのですから比較の仕様がないのですが、そういう事情は、生活に慣れるに従い少しずつ理解していくことが出来ました。激しいカルチャーショックを次々と経験したわけですが、これらの経験は、私に、日本人であることと同時にブラジル人であること、そしてユバで生まれ育ったという三つの要素が存在していることを認識させる大切なきっかけを与えてくれました。そして、日本もすばらしいけれど、やっぱり生まれ育ったブラジルでこそ今までの経験を生かしていけるのではないかと確信ました。

サンパウロのバレエ団ジョアニニャとの交流(前列中央・アヤ) その後間もなく、より広くブラジルの人々とのかかわりを求め、サンパウロのバレエ団に通い始めました。新しい出会いの中からブラジルの魅力を再発見するに従い、逆に日本のよさもよりたくさん見えてきました。そして、日本とブラジルがいろいろな形で交わって存在しているヤマの独特の魅力と豊かさ、世界が、複雑さもひっくるめて、何てすごいところなんだろう、と感じられるようになりました。

 ユバ・バレエ団は、おじいちゃんから子供までがみな一緒になって創り上げる、というとほのぼのとした楽しい印象を与えるかも知れませんが、決してそうではありません。いろいろな個性の人がいて、七十名もの人達が一緒に暮らし、炎天下で畑仕事をこなす人々、子供たち、七十人分の食事をこしらえるお母さんたち、歌い踊り楽器を奏で、絵を描き、創作活動を行うのは本当に大変なことです。ですからヤマのバレエは、日々競い合いながら生き延びていく専門家の世界とはまた異なった厳しさがあります。

 大変だから辞めようと思っても生活はしていけますし、少しばかり手を抜いたって人に蹴落とされたり、続けられなくなる危機感はありません。ですからきちんと舞台に立つという姿勢を保つのは、人に言われるのではなくて、本当に個人の責任と自覚が必要です。ヤマのバレエもよそのバレエも、観客の前に立つ、舞台に立つという姿勢においては互いに共通していると思います。舞台では偽りやごまかしが通用しません。

 一般の常識からすると、ヤマのバレエは技術的にも未熟ですし、素朴です。スタイルだって普通のダンサーのようにスマートではありません。普段の練習だって、他のバレエ団と違って本音がばしばし飛び交います。誰もお世辞を言ったりウソは言わないので、非常に気持ちがいいのですが、言い出したら最後まで誰もゆずりません。遠慮がないので収拾がつかなくなることもしばしばです。知らない人がその場面に居合わせたら、きっとその迫力に、なんて大変な所だ! と驚いてしまうことでしょう。また、いくら踊りだけをやっている専門家ではないといっても、人様の前でやる以上、絶えず向上する気持ちも必要ですから、それを保ちつつ引っ張っていくことは一筋縄では行きません。

 ですから指導者である母としては並ならぬ忍耐と理解を要求されます。でもヤマのステージの魅力は、バレエに限らず、みんなの能力、存在を尊重して作り上げるという過程があり、その姿勢がヤマの舞台を支えていると思います。決して完璧ではないけれど、自分ができることを精一杯やろうよ、とみんなが団結したときには素晴らしい底力を発揮します。その姿は堂々としていて素敵です。優れたスタイルや、素晴らしい技術、ため息が出るほどの見た目の美しさも、それはそれで素敵ですし、大切だと思います。でも、ヤマの舞台は「それがなんですか!」という迫力が、説得力があります。畑で汗を流すたくましい体が、大きな鍋をかき回すたくましい腕が、日に焼けた肌が、躍動し、見ているものを圧倒してしまいます。それがヤマの強さであり、お互いを尊重しあってこそ初めて生まれる調和であり、ヤマがそうありたいと願う姿なのではないかと思うのです。

 ヤマのバレエは生活そのものです。毎日の生活が舞台を支え、舞台が生活を豊かにします。日常の小さな努力の積み重ね、楽しいことも悲しいことも、つらいことも,やさしさも、みんなの気持ちがいろいろな形で、どーんとそのまんま舞台にあふれます。

 ヤマのバレエ団は、実際には四十五年という長い年月を経てきましたが、そこにはそれ以前の、私たちのおじいちゃんやおばあちゃんたちの計り知れない大きな夢、生活、歴史、すべてひっくるめて存在しています。常に創造する生活を築き上げる。それは創立当時からの皆の願いでした。ですからヤマの舞台にはずっとずっと昔からの目には見えないたくさんの豊かさが存在していると思います。衣装を身に着け、真剣なまなざしで舞台に立っている子供も大人もおじいちゃんの姿も、どこのダンサーにも劣らない魅力にあふれています。

 生活をともに創造する、ということは変化を続ける、求める、ということでもあり、実際には大変なことです。どこにも答えはありませんし、見本もありませんから、皆で探しだすしかありません。けれども、みながこうありたい、という願いや夢、祈りがそこに生かされている限り、ヤマはこれからも新しい可能性を見出していけるものと信じています。

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