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金券が語るアリアンサの歴史

木村 快

1927〜1932年までアリアンサ移住地で使われていた「金券」  移住地史編纂委員会でカスクード(金券)のことが話題になっているとのことなので、わたしもいくつか参考になりそうなことを紹介したいと思う。  カスクードとは魚を意味する言葉として使われたらしいが、アリアンサでは移住地内の売店で使われる金券を意味していた。資金難に陥っていた移住組合が売店での使用を前提に考え出した便法だが、これが個人の貸借や、業者への約束手形として使われていた。どこへ泳いで行くか判らないという意味でカスクードと呼ばれていたのだろう。  わたしがカスクードのことを初めて知ったのは一九九五年だが、当時はまだ実際に使ったことのある人がかなり生存されていた。移民博物館で確認したものは名刺状の厚紙に「輪湖」の印鑑を押した粗末な物だった。どの時点から印刷されたものが使われるようになったのかは調べていない。

  時代背景

 カスクードが使われた一九二七年から三二年にかけては日本政府のブラジル移住政策が混迷を極めた時期で、アリアンサ移住地にとって最も試練にさらされた時代である。
 一九二七年は帝国議会で海外移住組合法が制定され、ブラジルに各県の移住地をつくろうと乗り出した年である。各県に資本金二〇万円の移住組合が組織され、移住地建設資金の融資・助成が行われることになった。しかし、アリアンサ移住地は母県単位ではなく、信濃、鳥取、富山の三協会が一体となった移住地であったため、国の認定する移住組合としては認められず、海外移住組合法の適用から除外されてしまった。新しく県単位の移住組合を認定して貰うには各組合二〇万円の資本金を用意しなければならない。一九二七年当時だと、信濃は一五万円、鳥取一〇万円、富山一〇万円、隣接する熊本移住地は五万円の資本金しかなかった。
 結果的には信濃、鳥取、富山それぞれの移住組合が承認されるが、そのため統一移住地だったアリアンサは各県毎の利害で対立するようになる。この時期の混乱の解明は、移住史研究の課題として残されている。

  経営の困窮

 一九二七年当時、アリアンサと比較すべき大移住地は海外興業経営のイグアッペ植民地しかなかった。海外興業は移住事業を一手に取り仕切る国策会社である。
 しかしアリアンサ移住地は信濃海外協会という民間の公益団体によって建設され、これに鳥取、富山の海外協会が加わり、移住者自身の自治をめざした大規模移住地である。開設主体は長野県知事を総裁とする信濃海外協会ということになっているが、実態は日本力行会の永田稠の事業であり、永田の理念に共鳴した輪湖俊午郎と北原地価造の協力で実現した移住地である。建設資金は共鳴者の出資だけで、長野県による資金面のバックアップは全くなかった。
 当初の計画では二〇〇戸単位の一移住地を二〇万円の資金で建設することになっていた。三移住地だと六〇万円必要になるが、実際に集まった資金は三移住地を合わせて三五万円しか集まっていない。第一アリアンサ開設に当たっては、土地代十五万円にさえ遥かにおよばない四万七千円しか集まらず、輪湖俊午郎、北原地価造、日本力行会員らによる無償奉仕からスタートしている。第二アリアンサ開設時には鳥取海外協会が十万円出資、第三アリアンサには富山移植民協会が十万円出資しているが、土地割り、移住者の受け入れ、道路、医局、産業施設などの建設はすべて信濃海外協会が負い、資金繰りは借金による自転車操業だった。

  地理的条件

 当時、アリアンサは大原始林の中に孤立した移住地だった。現在のミランドポリス市が町としての性格を持ちはじめたのは一九三六年にミランドポリス駅が開設されてからのことで、当然、食料・日用品は信濃移住組合経営のアルマゼン(売店)に依存するしかない閉ざされた世界であった。
 農産物の出荷や物資の購入は八〇キロ離れたアラサツーバまで行かなければならず、輸送に使うトラックは現在の中型程度のフォードが一台か二台しかなかった。輪湖彰さん(一九二五年生まれ、輪湖俊午郎次男・1996/05/16取材)の話では「アラサツーバの大原商店が仲買をしていたが、米を出してもいくらで売れたかは一週間たたなければ判らなかった」と言う。

 この時期のアリアンサ移住地経営の困難さについて触れた文章や聞き書きをいくつか紹介する。


・住川菊太郎氏(「日々新たなりき」一九六七年刊)

 その頃輪湖氏はチエテ移住地建設の重任を負い、アリアンサの方は専ら北原さんがやって居ったのであります。ところがアリアンサ移住地は現金がなくなって、輪湖氏の印鑑を押して金券を発行したのですが、これは他所では通用出来ずに植民者は随分困りました。従って同氏の家庭も随分切迫して弱り切って方法なく、(中略)この時、同氏には二人の男の子があり(譲二、彰)、グルッポ(学校)入学の年齢でありましたが、同氏は子供を学校へやらない。日本語を家庭で教える丈けで、知人の勧めを受けても厳として受けないのです。当時赤貧洗うが如くで一片のポン(パン)も子供に与えられず、利律江夫人の悲嘆は毎日高まる一方、如何とも仕方なく「子供の世界は別ですよ、何とかして…」と言ったのです。然し、衣食足って礼節を知るで先ず食糧生産が第一だと言い、十歳前後の男の子に私は毎日エンシャーダを引かせ、マンジョーカを植え、ミイリョやフエジョンを蒔き、豚を飼ったのであります。(住川氏は利津江夫人の義弟)


・和田周一郎氏(「日々新たなりき」一九六七年刊)

 輪湖さんと最初に御会いしたのは、(アリアンサ開発の始まった)一九二四年頃で、(中略)当時、三十九キロ奥で二十八アルケーレスの土地を買ったが、其の土地には入植せず、ビラノーバ移住地、今のミランドポリスに一九三二年に入植して、一九三二年頃から札幌の日本植民学校の卒業生達を預るようになった。入植当時の苦難時代で日々の生活費にも困ったので、前記二十八アルケーレスをアリアンサ移住地薬局の薬剤師をして居られた本間さんに買っていただいた。三分の一は現金で、残りは月賦と云う話だったが、最初の三分の一も半分は現金、半分は月給の取分で、事務所へのオルデンを受取ったが、アリアンサも開拓当時の苦難時代とて、何回催促に行っても支払っていただけない。三回に一回位は厚紙を歌留多大に切った札に百ミルとか書いて、輪湖氏の印が捺してある金券と云うもので、他地方では通用しない紙切を受取って、十五キロの山道を催促に行っては麦粉半俵、砂糖半俵と売店からもらって、馬の背に積んで帰って来た。が、大勢の喰い盛りの青年たちだからまたたく間になくなってしまう有様で、十五キロの道を催促に行って輪湖さんの顔を見るのが恨めしくなった。(輪湖さんは)当時はチエテ移住地も合わせて支配して居られたので、両移住地の経営には大変な御若労だったと思われる。(中略)今から思えば、紙切れの金券や麦粉や砂糖があったからこそ大勢の青年も喰わして行けたと感謝して居るわけで(以下略)。


・箕輪謹助氏(1995/05/21 取材・木村快)

 ある時期、アリアンサには金券が通用していた。発行額が当時の金で二〇コントス。それがアラサツーバあたりでも通用したものだ。最後はそれを整理するのに、金がなくて、ほんとかどうか知らんが、宮尾さんの所持金を使ったと聞いたことがある。組合が出来た当時は一五コントで土地が二〇アルケール(四〇ヘクタール)買えた。


・阿部敬吉氏(1997/08/01 取材・木村快)

 僕は昭和五年に力行会員として渡伯した。渡辺農場(第三アリアンサ)は二〇〇アルケールあり、入り口から奥まで二キロあった。ここにカフェを十二万本植えて、宮尾先生はこれで一万円儲かると言っていた。ところがカフェの植え付け制限が出て、食べるにもことかく状態になった。その頃アリアンサではカスクードが使われていたが、これをアラサツーバへ行けば、現金に替えてくれるところがあった。


広岡重治氏(2000/03/05ミランドポリス在住 取材・矢崎正勝)

 アリアンサのカスクードについては一九二八年から一九三〇年頃まで使用したと思う。霜害があり、ヴァルガスの革命があった頃までで、金額は覚えていないが、五種類くらいあったようだ。

  まとめ

 カスクードの終期、一九三一年は日本政府のブラジル移住政策が大きく転換した年である。政府は海外移住組合連合会の役員を一新。新移住地建設の廃止、既設移住地の統合を打ち出す。その結果アリアンサはブラジル拓植組合に併合されることになる。熊本、鳥取、富山は問題なく併合が進んだが、信濃はこれを拒否。盟主の信濃としては解決しなければならない問題を多く抱えていた。中でもカスクード問題は大きな課題であった。仲買をしていたアラサツーバの大原商店だけでも多額の負債がカスクードとして残っていたという。
 カスクード問題の解決は今井五介の助力によるものと考えられる。一九三三年十月、片倉製糸の今井五介は日本蚕糸会遣米使節団代表として渡米した帰途、ブラジルへ飛び、アリアンサを訪問、五万円を融資している(一説では七万円)。七五歳の高齢でありながら今井は遠路到着早々アリアンサ墓地に詣り、輪湖理事に困っていることはないかと尋ねたという。信濃海外協会設立に力を貸した今井はアリアンサの苦境を気にしていたのだろう。信濃がブラ拓併合を決断し、北原理事、輪湖理事が辞任したのは一九三四年二月、ブラジル拓植組合との調印は一九三八年五月である。

 追悼 輪湖 彰さん


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