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アリアンサ運動の歴史

第一部 アリアンサへの道

木村 快

 はじめに

  『創設十年』について

 アリアンサは日本内地の移住地建設運動によって生まれた唯一の移住地である。アリアンサ移住地には昭和十一(一九三六)年に刊行された『創設十年』というすぐれた移住地史が残されている。産業・教育・文化・人口動態など本格的な記述による三七〇頁の大冊で、創設期のアリアンサの姿を伝える貴重な資料である。しかし、海外移住組合連合会(後の日南産業株式会社、現地機関名は有限責任ブラジル拓植組合)に運営権を委譲した後の刊行であるのと、日本で印刷する際の検閲に対する自粛もあり、国策に抵触する事項は全く記載されていない。また、この移住地がなぜ生まれたのかについての記述もない。

  闇に消された海外移住組合法問題

 昭和二年から九年にかけて、アリアンサが国策によって振り回され、最終的に海外移住組合連合会に併合された歴史はアリアンサ関係者の間では「アリアンサ四移住地統一問題」と呼ばれていた。この問題は複雑な経過を経て、やがてバストス移住地、チエテ移住地、トレス・バラス移住地という巨大な国策移住地誕生にまでつながる発端だが、この経過が『創設十年』には全く触れられてなく、また戦後編纂されたどのブラジル移民史でも扱われていない。
 アリアンサ移住地は日本の産業組合法の適用を前提に、日本力行会の永田稠によって信濃海外協会の名で企画され、建設が進められていた。産業組合法なら購買組合・販売組合・利用組合・信用組合が活用出来るからである。だが、農水省は主権の及ばない海外移住地には適用出来ないとこれを拒否する。永田は産業組合法の制定にかかわった小平権一と相談の結果、海外移住組合法という単行法を制定するための運動を始めた。そして、大正十四年に議会に建議されるが、翌大正十五年、審議未了で流れている。
 しかし、鳥取、富山の海外協会が信濃海外協会との協同事業に参加し、熊本もその隣接地に独自の移住地を建設し始めると、移住組合法には冷淡だった政府部内に突然独自の移住組合法案が生まれ、昭和二(一九二七)年二月の第五二帝国議会で海外移住組合法が制定される。しかし、適用を受けられるのはその後、県単位に組織される組合だけで、アリアンサ移住地のような数県が協同する移住地は除外された。
 そして八月には内務大臣を会頭とする海外移住組合連合会が設立され、ブラジルに毎年県単位の移住地を八移住地ずつ建設することになった。いわゆる一県一村移住地政策である。そうなるとすでに建設が進んでいるアリアンサ四移住地は取り残されることになる。
 移住組合法の適用から除外されたアリアンサ四移住地は、特例として四移住地一括で県同様の扱いを要望する。連合会専務に就任した梅谷光貞が元長野県知事であったことから、一たんはアリアンサ救済案として承認されるが、昭和六年、浜口総理が東京駅頭で遭難したため、首相代理となった幣原喜重郎の方針転換で梅谷専務は失脚する。代わった連合会理事長平生釟三郎はアリアンサ救済案を撤回、宮坂国人専務を派遣し、アリアンサを国策移住地に併合する動きに出た。熊本、鳥取、富山は併合を受諾するが、信濃は昭和九年まで抗争を続け、アリアンサは大混乱に陥いる。
 この経過は人の立場も組織も複雑にからんでいて、よほど当時の政情とブラジル事情に通じていないと、簡単には理解できない。政府側から見たおおまかな経過は昭和十七年・ラテンアメリカ協会編纂の『南米ブラジルにおける日本人発展史・下巻』にあるが、問題の核心にはふれていない。戦後、日本の歴史学は移住史を扱わなくなったため、戦後の視点で見直された移住史、移住資料はない。今では日系社会の文献が唯一の頼みだが、ブラジル側でも断片的な新聞記事を見つけ出すことは出来るが、まとまった文献はない。どこかで消えたか、隠蔽されてしまったようである。

  アリアンサ対サンパウロの関係

 この問題の中核であったアリアンサ移住地は戦後、サンパウロ移民社会からどう見られていたのかを知る上で、一つの文献がある。戦後一九四九年に発行された最初の移民史『移民四〇年史』の第三章・言論思潮・「国家主義」の項に、アリアンサ移住地開設者の永田稠を論じた部分がある。この書は香山六郎の企画で、戦後のブラジル日系社会を代表する言論人、斉藤広志と安藤全八によって編纂されている。無署名だが、この部分は安藤のものである。

 帝国主義思想の代表と見なされてきた者に力行会々長永田稠がある。彼はブラジル移住者ではないがアリアンサ移住地の建設者であり、彼が指導した力行会々員が多勢ブラジルに移住して力行会支部を作り、有力な存在となっている以上、永田稠の思想をブラジル在住者なみにあつかうのは不当ではないだろう。  力行会はキリスト教精神によってつくられた海外移住奨励の団体であるが、永田の海外移住の理念には人類愛的世界主義ではなく、「国威の海外発展」ということが多分に織り込まれてきた。力行会が満川亀太郎らの国家主義者を講師と迎えたことがあるのを見ても分るが、永田調の軍国主義思想をもっとも露骨に現わしたものは、彼がアリアンサ移住地建設のため大正十三年訪伯して帰った後で出版した「両米再巡」(大正一四年発行」なる著書であろう。その中に、将来ブラジルにも起るであろう排日問題をうれいて、それの対策について彼の意見を発表しているのであるが、これだけで力行会の指導精神がどこにあつたかがよくうかゞえる。彼は同書の二四六貢で次のようにいっている。

 さて、私は排日封案の結論に行かねばならない。私は日本の官民が北米の排日に対して実行したことだけでは、伯国その外の排日を根絶することはできないと思う。
 一、伯国の排日は「緩和」「延期」「握りつぶし」をさせる位のことでなくて、必ず根絶せしむる目的を立つること。
 二、外交官の運動の外に、排日対班を組織すること。
 三、此組織の中枢となるべき人物は、少くとも大臣級の豪胆なる者にして、四、五名の浪人的軍人的の、若しできれば支那浪人をキリスト教化したような人物を助手とすること。
 四、運動に要する費用は、手段方法の如何を問わず十分に供給すること。
 五、対班の大眼目を伯国政治家、記者、その他の排日者、および伯国朝野の人士の「教育」におき、世界革命の大精神を鼓吹すること
 七、「教育」「買収」の外に「○○」の非常手段も時によって採用し、一種の「××」を加うること。要するに恩威並行すること。(○○、××は大正一四年の検閲による伏せ字)  この如きは単に伯国に封してのみならず、何れの邦土に封しても、少くとも排日運動の存在する所に封してはその威力を発揮せしむる準備を要するのである。

 以上のような考え方を、彼が養成して海外に送り出す力行会員に達成させんとしたのであろうが、ブラジルにおける力行会員中には、この「野蛮」きわまる考えを本気でうけつぐものはいなかった。永田の片腕といわれた輪湖俊午郎にしても海南島再移住の悪夢は見たが、もともとは個人的な意味でのブラジル永住を礼賛したコスモポリタンであった。

 わざわざ大正時代の文章を取り上げ、敗戦直後の歴史観で批判する意図はどこにあったのか。しかも、安藤は次の(六)の項目を意識的に外している。

 六、対班は在留者の帰化運動を助成し、市民権を善良に行使せしむること

 この永田の文章はアリアンサ開設時にブラジルにおける将来の問題として、日本政府の移民政策の弱点を指摘したもので、「排日対策について」と題する八ページにわたる文章の最後の要約である。
 アリアンサが開設された一九二四年の前年、ブラジル議会では日本人排除を視野においたレイス法案が論議されていた。だが、日本人関係者はそれを全く問題にしていなかった。アメリカ時代に日本移民排斥運動を体験している永田は、排日思想がイギリスからオーストラリア、カナダ、アメリカと伝播した経過を紹介し、ブラジルでもその予兆があることを警告している。そして自分の体験をもとに、アメリカでは排日主義者が中立論・反対論を押さえ込む手段として必ず「買収」が行われ、職業的運動家を養成し、議会を動かして行ったことを紹介している。人種的偏見が根幹にある以上、尋常な手段では対抗できないことも覚悟しなければならないという意味で、「教育」(説得)だけでなく、職業的排日者を逆買収するくらいの覚悟が必要だと言っているにすぎない。
 大正期の文体であるから、表現は無骨だが、これを「軍国主義思想をもっとも露骨に現したもの」と見るには無理がある。移住組合法問題が大問題になった時期の言論人であった安藤が、(六)の、「在留者のブラジル社会への帰化を支援し、市民権を行使することの重要さ」の項を意識的に隠し、攻撃しやすい言葉づらだけを取り上げたのは、思想問題としてではなく、アリアンサ否定が目的だったことを思わせる。
 アリアンサ開設者の永田稠がサンパウロではいかに否定的人物として扱われていたかがわかる。ブラジルにおける排日の動きは永田の予想したとおり、日本の国際的孤立とともに一九三三年には事実上の日本移民制限を意図した移民制限法が公布され、ゼツリオ政権の日本人敵視政策がはじまった。移民社会指導者層にはこうした事態への心構えはなく、対策もないまま第二次世界大戦を迎えている。
 安藤は満州事変、日支事変(日中戦争)についても戦後史観の立場から、軍に迎合した日本国民および日本移民の自覚のなさを批判しているが、満州事変後の昭和八年に、永田が東宮鐵男の満州武装移民政策を批判し、関東軍移民部を追われた事実は紹介しない。
 永田は確かに日露戦争従軍者で言葉遣いにも無骨なところがあり、敗戦後の安藤のような社会主義者ではなかった。だが、斉藤広志らを育てた海外興業の井上雅二や、安藤らのパトロンであった南米銀行(旧海外移住組合連合会・ブラジル拓殖組合)の宮坂国人のように、国策の先頭に立った人物とは闘い続けている。
 安藤はまた別項でアリアンサ創設にかかわった輪湖俊午郎のブラジル定住論は偽物であると攻撃している。『移民四十年史』が永田や輪湖を攻撃していた頃、日本力行会員は輪湖をサンパウロに招き、奥地二世がサンパウロで勉学できるよう、手弁当でアルモニア(ハーモニー)学生寮の建設運動に奔走していた。輪湖は六年間無償でこの運動に献身し、建設資金の大半を集めている。現在は幼稚舎から高等部までの一貫教育を行うアルモニア学園となり、日本語を必修科目とするブラジル唯一の教育機関として注目を浴びている。
 同じ日本人でも永田や輪湖や力行会員たちは、香山・斉藤・安藤ら主流派とは全く別な次元で、ブラジル日系社会の未来のために働いていた。
 永田稠、日本力行会、アリアンサ移住地を否定する見解は、国策会社系の人脈で構成されるサンパウロ移民社会主流派の見解であると考えていい。この見解はその後も受け継がれている。山川出版社刊の『長野県の歴史』(一九九七年、)でアリアンサ移住地を否定的に論じた見解の取材源もサンパウロ日系社会であった。一九七八年の『ブラジル移民七十年史』が刊行されたときも、「アリアンサ移住地はブラジル拓植組合が開設した移住地である」と記述し、ブラジル力行会から事実を歪曲するものと抗議を受け、編纂委員長の斉藤広志が謝罪したという経緯がある。
 多数派が少数派を排除するのはどの世界でもあることだが、斉藤広志、安藤全八(アンドウ・ゼンパチ)といえば二〇世紀後半のブラジル日系社会の顔として知られた人物である。つまり戦後の日本に情報を伝える窓口であった。移民百年の節目に、あらためてサンパウロ移民社会から無視されてきた少数派移住地、アリアンサの建設運動を追ってみたいと思う。

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