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木村 快
第二代力行会長に就任した永田の前には多くの課題が待ち受けていた。力行会本部には債権者が待ち受けていて、負債全額をすぐ支払うか、さもなければ本部の土地建物を引き渡せとの要求を突きつけられる。
永田は思いきって力行会本部を債権者に引き渡し、神田林町の警察署跡を借家して本部を移転させる。それから、島貫会長の知人、力行会支持者を訪ね歩き、助力を求めるがはかばかしい返事は得られない。島貫の信任が厚かったとはいえ、アメリカでの活動に明け暮れた永田にとって、日本はまるで異邦の国だった。
だが、ひそかに力行会の窮状に心を痛め、永田に期待を寄せる人物がいた。永田と同じ信州諏訪の出身で、ユニークな教育方針で知られる東京市立第五中学校長伊藤長七である。伊藤は新渡戸稲造、沢柳政太郎、後藤新平、片倉兼太郎、今井五介といった著名な人物への紹介状を書いてくれた。
永田はこうした全国的な影響力のある人物に助言を求めるのなら、力行会の存続問題を訴えるより、力行会の実績を全国的な視野でとらえ直し、日本人のための事業として助力を受けられないかと考える。
永田は早速沢柳政太郎博士を訪ねる。沢柳政太郎は文部官僚時代、小学校を四年制から六年制に改め、また(旧制)高等学校を増設し、全国からの人材登用の道を開いた人物として知られ、東北帝国大学初代総長、京都帝国大学総長を歴任し、当時は帝国教育学会会長として教育界に絶大な影響力を持っていた。永田は率直に自分の経歴を話し、海外生活の体験から、力行会は社会慈善団体に甘んずることなく、世界に視野を開く教育の一端の力になりたいと訴える。沢柳は永田が異色の人材であることを認め、力行会の顧問を引き受けてくれる。さらに、永田の持参した『海外発展と我が国の教育』の原稿に目を通し、これを同文館から出版できるよう手配してくれた。これが永田稠の最初の出版物となる。
永田は次いで新渡戸稲造博士を軽井沢に訪ねる。永田はカリフォルニア時代にリフォームド協会で新渡戸稲造の講演会を開いたことがある。永田はアメリカの排日運動を体験した立場から、移民を送り出す以上、渡航以前に世界的に通用する移民教育が必要であり、ついては力行会で移民講習所を設置したいと訴える。新渡戸は「力行会はすでに海外学校を開いているのだから、講習所は最近出来たばかりの日本移民協会にやらせよう。君がその所長をやったらいい」と賛成してくれ、力行会の顧問も快く引き受けてくれた。新渡戸の指示で日本移民協会は横浜駅構内に「横浜海外渡航者講習所」を開設し、永田を初代所長として迎えた。
こうしてそれまでは毛色の変わった慈善団体と見られていた日本力行会は先端的な海外事情普及、海外教育の団体として注目を集めるようになった。大正八年には日本力行会は財団法人の認可を受け、永田は海外事情普及の第一人者として講演や各県の海外協会設立に協力するため、全国を飛び回るようになる。
海外協会という組織は海外移住者の消息を調べたり、移民会社の一方的宣伝に惑わされないように移民の実情を紹介する民間公益団体である。最初の海外協会は大正四年に熊本と広島に設立されるが、永田はこれらの設立に積極的に協力している。
力行会という組織の再建はなんとか軌道に乗ってきたが、青年たちを海外へ送り出すという肝心な事業はアメリカの日本人移民禁止にはばまれて動きがとれないままだった。
永田がアメリカから帰国した大正三(一九一四)年から大正七年(一九一八)にかけては第一次世界大戦で世界が激変した時代である。戦争景気で日本の工業生産力は飛躍的に拡大するが農村は窮乏化し、米騒動が全国に広がるなど社会変動に伴って国民の社会意識も大きく変化しつつあった。このように変化していく時代に、果たして力行会はどのような役割を担うべきなのか。
永田はアメリカに代わる青年送り出し国としてブラジルに注目していた。サンパウロ州には青柳郁太郎が設立したイグアッペ植民地がある。青柳郁太郎はアメリカ留学時代から移植民事業の研究に打ち込み、出稼ぎ移住ではなく定植移住を主張してきた人物である。大正二年、桂内閣のバックアップで東京商工会議所会頭・渋沢栄一が設立委員長となり、青柳のためにブラジル拓植株式会社が創立される。青柳はサンパウロ州政府から無償土地払い下げを受け、本格的な企業植民地「イグアッペ植民地」を建設していた。この植民地は自営を目的とする中流農家が日本で植民地の土地を購入して移住するもので、長野県からは三〇〇家族以上が送り出されており、ブラジルに信濃村が出来たと話題になっていた。
そんなときに、永田は絹産業の視察でニューヨークから帰ってきた郷里の旧友、片倉直人から南米視察をすすめられる。力行会顧問の沢柳政太郎に南米視察の希望を述べると、最初に出版した『海外発展と我が国の教育』が識者の目を引いたこともあり、永田を文部省の海外子女の教育実情調査嘱託に推薦してくれた。この肩書きがあれば海外へ出ても大使館、領事館の協力を受けることができる。
大正九年三月五日、永田は旅行資金のめどがつかないまま、アメリカへ渡る。心配していた日本人農会は永田の帰国時には二組合に過ぎなかったが、五年ぶりで訪れてみれば六〇組合に増加し、永田は各地で歓迎を受ける。産業組合思想は移民自身を協力させる最良の手段であることを確信する。
永田は北米移民の孤立を防ぐためにも、中南米移民との連携が必要であることを訴えて歩く。そして中南米視察の旅費をつくるため、帰国後出版する予定の「南米一巡」の予約を取り付ける形で資金を集めて歩いた。その結果、アメリカ在住の力行会員松本萬亀から活動資金一千ドルの提供を受け、会員渡辺秋治はカメラを担いで永田に同行し、南米各地の写真をサンフランシスコの新聞に寄稿することになった。
アメリカでは二ヶ月間にわたって移民農家の実情を視察。ブラジル・リオデジャネイロに上陸したのは三ヶ月後の六月一日である。
初期ブラジル移民はサンパウロ州政府が旅費を支給するコーヒー園の契約労働者であった。しかし一九一四(大正三)年一月、州政府の旅費支給が打ち切られ、日本移民は激減する。笠戸丸から五年間の移住者数はブラジル移民局の統計によると一〇、九六七人である。ところがこの年の八月、第一次世界大戦が始まり、ヨーロパ系移民が減少しはじめたため、再び日本移民への要望が高まってきた。
日本政府は本格的なブラジル移民送り出しに乗り出す。一九一六(大正五)年に移民会社を統合し、移民組合を結成させると、一九一八(大正七)年には寺内内閣が移民組合を国策会社・海外興業株式会社に格上げする。さらに政府資金を活用させるために朝鮮植民事業の法律、東洋拓殖株式会社法を改正している。そして海外興業扱いの移民には支度金と片道の旅費を支給するようになる。だが、現地で農園就労を斡旋すると、後はすべて移民自身の責任とされた。しかも移民は家族移住が原則であったから滞在中に家族が増え、農園の契約が終わっても一家で帰国するだけの旅費を稼ぐことは困難であった。
当時の船賃は片道一人二〇〇円。もし五人家族なら一、〇〇〇円になる。『物価の風俗史』(朝日新聞社)によれば、大正七年の小学校教員の初任給は十二円から二〇円とある。また、契約移民の実態については『移民の生活と歴史』(半田知雄著・一九七〇年)が詳しいが、大正七年時点でも、よほど順調でなければ帰国の船賃を稼ぎ出すのはむつかしく、ましてや金を儲けて帰るなどと言うことは夢の夢であった。
当時のブラジル農園では食事は自分たちでつくるため、就業時間外に農園内の空き地で作物を作ることは容認されていた。このため、移民たちはブラジルにおける農作物の栽培についての経験を積むことが出来た。そこで、労働契約を終わった移民は未開拓地を購入し、開拓生活に入ることが一般的になる。それを助長したのは、ブラジル政府が奥地開発政策として、ノロエステ鉄道沿線の原始林を二五ヘクタール単位で安価に分譲していたからである。移民たちは一斉にノロエステ鉄道沿線の開拓に殺到していた。
リオデジャネイロで永田がまず訪ねたのは山縣勇三郎である。山縣は北海道の漁業、炭坑開発、牧場経営、海運業などで財をなし、後進育成のための学校を創設したり、独力で満蒙地域を探検したり、日本では事業家としてより国士的気概を持った人物として知られていた。第一次大戦後の不況で破産するが、明治四一年に笠戸丸より一足先にブラジルに渡り、農場、塩田事業などを経営していた。山縣は農場経営を通じて多くの人材を育てており、人望があった。このとき山縣は海外興業株式会社が移民の保護育成を放置し、政府の支給する斡旋料の上に移民の船賃をピンハネしているなどの実例を挙げ、いかに移民を食い物にしているかと憤慨している。
それから永田は一ヶ月間をかけ、教育事情の調査をかねて、サンパウロ州、ミナス・ジェライス州、マットグロッソ州と、ブラジル人農園や日本人集団地を精力的に歩き回っている。
ノロエステ一帯にはすでに多くの日本人集団地が生まれていた。一九一五年に開設された平野植民地や、一九一八年に開設された上塚植民地のような組織的な開拓地もあったが、圧倒的多数はその場限りの焼き畑農業がつづけられていた。日本移民は広範囲にわたってそれなりの勤勉さで生産活動を展開していたが、問題は統一組織がなく、個人的な活動の域を出られないため、子弟教育、医療、産業施設の貧困にあえいでいることだった。
この時点で、永田は産業組合を活用した移住地の構想を立てていたようである。在留者が一時しのぎに集まる集団地では離合集散を繰り返すだけである。ブラジル社会に対応できる一定の社会的機能を備えた集団地が必要だった。そのためには生産労働者だけでなく、社会的能力を備えた青年活動家が必要であり、そこに力行会の役割があると考えた。
最後に、永田はサントス港から船で、最も設備の整ったブラジル拓植株式会社経営のイグアッペ植民地へ向かう。イグアッペの中心であるレジストロ植民地には長野県出身者が多く、その世話役的存在として北原地価造がいた。北原は長野県伊那農林学校出身で、移住する前は長野県庁の農業技師であった。永田はここで北原を介して輪湖俊午郎と会い、ブラジル移民の現状について二日間にわたって懇談している。